illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

日めくり百人一首 #004 田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

日めくり百人一首の第4回。山部赤人。かっこいい名前。高市黒人と双璧。ちなみに、百人一首に出てこないけど、高市黒人いいよ。たとえば、これ。

高市黒人

古(いにしへ)の|人に我あれや|楽浪(ささなみ)の|古き都を|見れば悲しき

勝手訳

古の|記憶が還るか|南志賀|都跡を見ると|俺も悲しい

なんかね、ユーミンぽいんですよ。中央フリーウェイ。京滋道路を通過している感じがする。奈良時代の感性とはとても思えない。内省と心象の具合が、近代人。勝手訳ではやさぐれた言葉遣いをしていますが、もちろん元歌は実に雅(みやび)やか。

高市黒人 千人万首

会いたかった。奈良の歌人で誰に会いたいかって、筆頭は高市黒人山部赤人の先駆をなすともいわれるのが、この高市黒人であります。俺は話が合ったような気がするんだよね。ま、彼の話はこれくらいにして、山部赤人

元歌

#004

田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

山部赤人

単語に切る

田子の浦|に|うち|出で|て|見れ|ば|白妙の|富士|の|高嶺|に|雪|は|降り|つつ

品詞分解

田子の浦(名詞)

に(格助詞)

うち(接頭辞、「ちょっと」)

出で(ダ行下二段活用動詞「出づ」(いづ)連用形)

て(接続助詞)

見れ(マ行上一段動詞「見る」已然系)

ば(接続助詞、確定条件)

白妙の(枕詞)

富士(名詞)

の(格助詞)

高嶺(名詞)

に(格助詞)

雪(名詞)

は(係助詞)

降り(ラ行四段活用動詞「降る」連用形)

つつ(接続助詞)

知識事項

・「うち」は、ちょっと、ついうっかり、気が付いてみれば、くらいの意味です。ニュアンスが難しいんですが、現代語でも「引き続き」とかいうでしょ。「引き」には引っ張るという意味はないか、意識されない。でも「続いて」と「引き続き」の違いを、われわれは感知します。それくらいの「ちょっと」を「うち」は担うと考えていいと思います。田子の浦に、ちょっと出てみたのね。

・それと、「うち」は、ちょっと出てみたら、開けたところだった、という感じが含まれます。

・古語の「~(れ)ば」は、現代語のようなif thenではありません。実際に、そうしたところ、こうなった、という筋立てです。見てみたら、くらい。「もし見たとすれば」ではない。実際に、この人(赤人かだれかは知らないが)は、田子の浦にちょっと出て、見てみたんですね。そうしたら、云々、というお話。こういう用法を「確定条件」といいます。入試で出る「ば」は、まず100パーセント、この確定条件と考えていいです。

解釈

いい歌ですね。ア音で始まって、お約束の富士と雪が出てきて、ほんとその通り、って歌です。

田子の浦にちょっと出てみた。(そうしたらやっぱり)富士山、見事だなあ。頂に近いところでは真白な雪が降り続けている。

白妙は、雪にかけるのがふつうです。加えて、富士にかけていてもいい。滅多にない/珍しいから、すばらしい、見事だ、くらいの意味になります。現代語では「絶妙」にニュアンスが残ります。

別の角度の話になりますが、たとえばね、2ちゃんねるで「田子の浦に出てみた。富士山の写真うpするwww」みたいなスレッドが立ったら、やっぱり21世紀のみなさんでも、もちろん僕も、期待して、すごいなあって思いますよね。そんな感じです。

異端説

赤人は実際には田子の浦には出ていないでしょう。経歴が判然としていないので史実はわかりません。各地を転々としていた下級役人といわれる。田子の浦には出ていたかも、出ていなかったかもしれません。

が、陽成院「筑波嶺の」みたいな具合で、別にその地に足を運んでいなくても、どちらでもいい。想像力でもって平安朝の歌人が由比蒲原からの情景を歌って構わない。

庄野真代「飛んでイスタンブール」あるいは久保田早紀「異邦人」がトルコやシルクロードに足を運んでいなくたって、異国情緒は伝わります。そこを云々するのは野暮でしょう。だったら赤人と田子の浦だって同じです。ユーミンは八王子の呉服屋まで中央フリーウェイを助手席で送ってもらったでしょうけれど。

当時の畿内の人にとって、富士山や筑波山というのはすごいインパクトがあったのでしょうね。

ほんと、いい歌だなあと思います。紀貫之が赤人のことを(柿本)人麻呂よりも上と評していたのがわかる。奇を衒ったところがない。海。白。山。雪。(あと魚があれば完璧w)読み聞かされて、絵柄がすうっと浮かぶ。お見事です。