illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「キリスト教」「ロゴス」「N個の性と自己了解」

おもしろい!
まさか遠藤周作に触れようという気になるとは自分でも思いませんでした。
やはり文学でいちばんわくわくするのは信仰告白なんですね。恋愛の告白ではときめきません。

lechatdusamedi.hatenablog.com

三題噺をやります。「キリスト教」「ロゴス」「N個の性と自己了解」。

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キリスト教

僕はプロテスタントのクリスチャンです。でした。棄教しています。

幼稚園がプロテスタント系でした。洗礼も受けました。両肩には守護の天使がいると教えられましたが、その守護の天使は病み老いた祖母も、母も救ってはくれなかった。守護の天使がひとこと「ごめん」って聞こえるようにいってくれたら許しました。祖母のときと、母のときと、2度、我慢したんです。そのとき、絶対に神を許さないと思いました。いまだに現れてくれません。

こういうと傲慢に聞こえるかもしれません。しかし、それで大丈夫なんです。神を許さないと誓った僕を、神は包摂してくれることになっています。でも僕は信じない。海外に出たときに、それでも教会建築をつい観光コースに組み入れてしまうのは、きっと何かの残存記憶です。

信仰心はわかります。信仰心を守る人は尊敬します(例、大塚久雄先生)(ただし創価はあかんよ。信仰体系としては底が浅すぎる。信者ども「人間革命」もう少しちゃんと読まんかい)。許し得ない神と和解する道のりが信仰であるという感覚もわかるつもりです(例、内村鑑三遠藤周作)。でも、僕はせっかちなので「神の国は近い」といわれたらそれがいつなのか知りたい性分です。高校大学あたりで史的唯物論だのに出会ったときに、あ、これは生産関係の移行というのは来る来る詐欺だなと思いました。高校1年の現代社会でデカルトの「方法序説」を読まされて、その空回りする情熱に打たれたものの、どこか腑に落ちなくてキルケゴールニーチェカフカを読み漁って、「神は死んだ」とかいわれて皮相で早合点したのは、まあ仕方のないところです。

イエスの生涯 (新潮文庫)

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キリストの誕生 (新潮文庫)

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ロゴス

「西洋化と近代日本の知性」。これですわ。明治以来、インテリはこれに躓かなければいけません。そのころ手にしたものの本に、漱石鈴木大拙西田幾多郎は偉いと書いてありました。偉いといわれると僕はだいたい全部読むんです。漱石はちょっとわかりましたが大拙も幾多郎もちんぷんかんぷんなので(当然やで)、西洋哲学も、世阿弥も、やりました。まるでおもしろくなかったです。で、何かおもしろいのないかなと思って探していたら、柄谷行人漱石論だったかな、鈴木大拙にも西田幾多郎にも触れていました。柄谷は歯切れがいいし、いまにして思えば方法的にいろいろとあるんですが、ただ、知の平野をかなり押し広げてくれた。俺は東大の英文に進むんだと漠然と思ったのもこのころ(1990年、早生まれ16~17歳当時)です。

それはさておき、ある時期(「<戦前>の思考」1994)までの柄谷は徹底して読んで咀嚼したのですが、彼の思考の先にある殺伐としたものに、身体と情緒が耐え切れなくなったんですね。解体ばかりしてもだめなんですよ。同じ東大英文の漱石は、文明批評をやりながら「こころ」が書ける。丸谷才一もそう。柄谷(学部は経済、修士で英文)は「近代日本文学の起源」は書けるけれども「こころ」が書ける気がしない。この差は何だろうと思って、江藤淳吉本隆明デリダサルトルヴィトゲンシュタイン加藤周一丸山真男小林秀雄三島由紀夫、また全集読みです。岸田秀呉智英すが秀実、と、こう読んでいる中に、竹田青嗣フッサールがいました。

革命的でした。竹田はいいます。「(さまざまな懐疑)にもかかわらず、世界了解は向こう側からやってくる。それは、実にエロいと言わざるを得ない(引用者意訳)」理性では馬鹿な女/男だと思っても心が勝手に恋に落ちるんです。性愛を抜きにしても、同じ(ではないか)。井上陽水って阿保だと思うけれど、「帰れない二人」を聞くと1970年代半ばの夜のとばりが目の前に開く。


帰れない二人 / 井上陽水&忌野清志郎

もちろん、職業的知識人として、方法的に、ストイックであることは必要です。例えば、ヴェーバー大塚久雄。でも、もともとは、あくまでも世界のエロスに手をかけ、よりよく開示し、だれかと了解することを、目的といわないまでも指向していたはずなんです。たとえば、斉藤茂吉的な万葉から、連歌へ。

N個の性と自己了解

ドゥルーズ=ガタリとはまた違った意味で、ことばを自分に向けて発するとは、自分の中の男女成分比率、男でも女でもない多様な要素の比率を静かに沈殿させたわが身を「をかし」「あはれ」と思い、慈しむことなのではないかと、最近は思います。

また話は変わりますが、僕は母方をさかのぼると神官と漢学者の家系で、祖父、母が実に達筆な人でした。僕もその血を引いています。それで、仮名文字を書かせると、なぜか祖父と僕は女手、母親は男手なんです。じいさんも僕も、なよなよっとした仮名が、自然に書けてしまう。母親は逆に、筋の通った、骨っぽい仮名と漢字を書くんです。

そのことが、ずいぶん長い間受け入れられずにいました。

「男らしさ」「女らしさ」「男だから」「女だから」といった、審級を立てて、その反射光でもって人は自己形成をします。そこには、気質や(社会的)能力の問題も複雑に絡んできて、戸籍上は男性でもほんとうは63対37程度の比率でしか男性でなかったりする、にもかかわらず、ジェンダーとしては98対2で男性であるような振る舞いを強いられ、また、それが自分に対して自己暗示のように働いてしまうこともある。

三島由紀夫は、生涯を通じて、わが内なる男性的なものと女性的なものの成分比率と折り合うことがうまくできなかった、その意味ではかわいそうな人でした。また、しばしば指摘される、吉行淳之介らのミソジニーも、何かしら底を通じるものがあるのかもしれません。僕自身、個人史的に思い当たることがなきにしもあらず、なかなかうまくいかないものです。

サゲ

三題噺といいつつ、うまく落ちそうにありません。先に引いた、竹田青嗣に話を戻して、世界が開かれるというのはどういうことか、枝雀師匠の「三十石」にお出ましいただくことにしたいと思います。どうも、お粗末様でございました。


桂枝雀 三十石

追伸

いろいろ書きましたが、ねこはかわいいのです。