リコ (id:ricoteas)さんの、実に勢いのある、ホマレ姉さんとはまた違った風流のレシピの数々を読んで、深く頭を下げた。この域はまだとうてい無理だと悟り、それでもおいしい青物が食べたくなった俺は、姉さんのサイトを「水菜」で検索する。
作った。食べた。お嬢「これは! いくらでも箸が進みますね」。御意でござる。だいたい、じゃこをオーブンで焼くという発想がなく、しかもたまらないいい香りがする。作っているそばからお嬢「これは何やらいい香りが漂ってきましたね」。
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リコさんと、ホマレ姉さんに、お礼のつもりでポロ葱の話を少々したい。
たまらなくうまそうだ。ポロ葱。
関東人にとって、葱といえば下仁田(群馬)、深谷(埼玉)、それからちょっと足を延ばして粋な真似をしたいと思ったら京都の九条葱、だろう。ポロ葱は、戦後しばらくが過ぎても、ごく限られた西洋料理店や調理師専門学校でしか目にすることが出来なかった。と、聞いている。
誰が広めたのか。きっかけを作ったのか。
その頭目は、おそらく辻静雄であったろう。辻調理師専門学校の創立者その人である。
海老沢のこの評伝はとてもよく出来ていて、ポロ葱をはじめとするフランス、オランダ、ベルギーといったあちらの国の野菜が日本に鮮度を保ったまま輸入できるように検疫システムの見直しをフランス総領事館に迫ったエピソードなどが記されている。ちがう。そうじゃない。そうしたエピソードをバランスよく配しながら、戦後の日本でおきた「本格的な料理文明の開化」を、辻静雄の生涯とよく絡ませながら、実に渋い男の、女の、東西の料理人たちの肖像を描き切っている。もう何度よんだかわからない。
せっかくなので、印象的な一節を引用しようと思ったのだが、しかし、手元在庫が切れている。たぶんだれかに手渡して勧めてそのままにしてしまっているのだろう。Amazonから明日届くように手配した。
届いたら、この部分を、引用で更新する。
それまでのあいだ、同じ作者の別の作品から、なるほど海老沢泰久という人はおいしい風景をこういうふうに心を尽くして描くのだなと感じてもらえそうなところを引いておく。
試合終了後、広岡は岡田と食事に行った。
「ここの鴨のローストはうまいんだ。バターを塗って丸焼きにしただけのものだがね」
なるほど岡田のいうとおりだった。鴨の味がそのまま生きていて、ためいきが出るほどうまかった。広岡はその味を楽しみながらワインをのみ、それからコップの水をすこしのんだ。
「うまい料理を食べているときにこんな話をするのはいやなんですが――」
彼はいった。「どういうふうにしたんです? 高柳を締めあげたんですか」
「ああ、そうだ」
岡田は鴨を口に運びながら、顔色ひとつ変えずに答えた。「どうしても監督になりたかったらしい」
海老沢泰久『監督』(文春文庫)P.347
舞台は1978年。ドンケツ・エンゼルスと揶揄された東京エンゼルスの監督に広岡達朗が就任する。まるで本物の広岡達朗のように(ここ点々打って)、広岡達朗は(こっちもね)チームをかきまわし、リーグに戦いを挑み、長島を慌てさせる。
就任以来、裏方から広岡を支えるのが、親会社オリンピック建設の社長、岡田三郎である。シーズンが深まり、エンゼルスはいいチームになりかけていたが、古参の高柳ヘッドコーチが野球賭博絡みの汚い手を仕掛けて広岡を追い落としにかかる。その事件が岡田の尽力によって一段落し、エンゼルスが会心の勝利を挙げたゲームのあとで二人は鴨のローストをたべるのである。
『美味礼讃』の食事、美味の描写も、全編この調子である。けなしているのではない。海老沢さんというのは、飾らない、変わらない人なのである。その人柄を若いころから目にとめ、いつか辻静雄に引き合わせたいと狙っていたのが、丸谷才一であった。
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丸谷の、この本はグルメ本として非常におもしろい。中公文庫版は2010年の出版だが、もとは1972年から75年にかけて書かれたもので、なんというか、丸谷の叙述も、最晩年の手練れすぎたところがない。
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もう1冊、おすすめしておこう。ヨシユキ先生の、これ。山藤章二の挿絵が彩りを添えている、なんていうレベルではなく、掛け合いをしている。なぜこの機会に引き合いに出そうと思ったかというと、本書オリジナルは1974年の刊行。夕刊フジの連載をまとめたものである。丸谷作と吉行作は時期が重なっている。1970年代も、なかなかどうして捨てたものではない。
最近の筋の悪いサロンという用法を見るにつけ、1970年代半ばの日本国銀座には、「文壇サロン」が存在していたことを、ちょいと確認しておこうとおもった次第である。ためしに当代ライター三人衆[山口瞳、開高健、吉行淳之介](歴史的事実)と、[イケダハヤト、はあちゅう、梅木雄平](自称)を並べてみれば歴然云々と思ったが、せっかくのホマレ姉さんの水菜のサラダに水を差すことになりかねないので、これくらいにしておこう。口直し口直し。
「わたしはジャイアンツを追われた人間ですよ。どうしてそんなやつに監督の話がくるんですか。そんなことはありえません。ジャイアンツというのはそういう球団です」
「万が一、話があったとしたらどうする?」
「どうしたんです、いったい」
「きみをどこへもやりたくないからだよ」
「そうですか。万が一、話があったら――、きっとどうすべきか考えるでしょう。そして――」
「どうする?」
広岡は苦笑した。
「厭だ、といいますね」
岡田の顔に笑いが広がり、それから彼はボーイを呼んで新しいワインをはこばせた。そしてふたつのグラスになみなみと注いだ。
「乾杯しよう」
と彼はいった。「きみをクビにしてくれたジャイアンツに!」
前掲書P.352-353
(引用者注)岡田のところには、時期を前後して、広岡のジャイアンツ復帰という無理筋を押し通そうとする(ジャイアンツのオーナーか、リーグの会長の意向を受けたと思われる人物からの)電話が何度かかかってきていた。もちろん、そのことを岡田は広岡に伝えていない。