土曜日の猫/猫の現象学(id:LeChatduSamedi)さんから望外のお褒めの言葉をいただきました。ひとえにはなちゃんとくーちゃんのおかげです。ありがとうございました。
stargazer-myoue.hatenablog.com
僕も、推薦してみます。
書き手のお人柄が感じられて魅力的なもの。切れ味。感性。女手。またはしいたけ手。概ね、以上が僕にとっては選定のポイントになりました。その際、土曜日の猫さんの記事は、とても魅力的なのだけれど、相互参照/推薦になるため、見合わせました。代わりに、記事の後半で、私信のようなお礼のメッセージを記しています。
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さて、まずは、こちら。
ホマレ姉さん(id:homare-temujin)の記事は、たまに旦那さんが登場するのが実はポイントではないかと、最近ではレシピ以外の部分でマニアックな読みを始めています。
次が、こちら。
季雲納言さん(id:kikumonagon)の、才気あふれる、凛としてはっちゃけたセンスこそ、平成の菅原孝標女ではないかと楽しく読んだ記事。藤原行成が好みという趣味もまた、すばらしいです。
そして、しいたけさん。
しいたけさん(id:watto)の記事はどれも読みごたえがあるけれど、これはとりわけ(僕にとっては、という意味ですが)社会的なメッセージ性が強く感じられた記事。しかも、おそらく書いているうちに、気持ちが盛り上がってきたのではないかと読みました。
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そして2014年の記事なので今回の企画からは選外でしょうが、どうしても僕にとっては外せないものがあります。特別賞をください(差し上げてください)。
ご本人は謙遜されると思います。また、前にも書いたことがあるので気が引けるのですが、それでも、引用します。
この辺でも生ズイキを食べる人は少なくなりました。青空市でも最近はあまり見かけません。私がこの地に来た頃、お年寄りは皆好んで食べていました。これを食べないと秋が始まらないと言う方もいましたね…。
世代交代して、今食べている家庭は何軒あるのでしようか? 私も大好きと言うほどでもありません。でも、ズイキを食べると言うことを娘に伝えておかなくてはいけないと思うんです。
彼女が将来作るかどうかは別として、母が作って食べていた…ということを残してやりたいんです。
ホマレ姉さんの料理には、歴史と、言葉と、おいしい里芋があります。巷にあふれるレシピサイトのように、出来栄えを写した写真がどれだけ小奇麗でも、僕はそんなものには魅かれない。説明の言葉遣いの端々から感じられる、作り手の人柄を見て、僕はその料理を作ってみようと思うタイプです。
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以下は長い余談です。ロゴスとエモーションというお題自体に触発されるところがあって書きました。一部、土曜日の猫さんへのお返事を兼ねています。
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唐突ですが、近代の日本ではついに正統の男性散文体が確立しませんでした。これは僕の歴史観です。論証を意図していません。感じ方の問題と思ってください。
試しにこう啖呵を切られたとき、正統の男性散文体を確立し、守り切った文章家がみなさんは何人、思い浮かびますか。
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僕が思い浮かべるのは、岡本綺堂、山本周五郎、吉行淳之介、丸谷才一、海老沢泰久、児玉隆也、福田恒存、開高健、江國滋、大野晋です。これは自慢ではなく、僕にとってはなちゃんとくるみちゃんが現れて残ってくれたように、遍歴の結果、僕という人間の抜き差しならない部分が、彼らと手を携えているという(彼らからしたら迷惑極まりないであろう)、尊敬と、諦念です。
また、ここに挙げなかったねこちゃんわんちゃんたちをケアすると、例えば、三島由紀夫は「懐風藻の次は俺だ」という自負を持ったものの、自分で負けを認めています。いくつかの作品は異様な光を湛えていますが、振れ幅が大きい。漱石の安定感とは差があります。川端康成は嫌いです。おもしろくないから。志賀直哉は自我に開き直っています。文章技法という点では、志賀を読むくらいなら里見惇をお勧めします(なぜ学校教師は勧めないのか)。その里見にしても随筆なら漱石門下の物理学者、寺田寅彦(「柿の種」)を繰り返し読んだほうがいいかも。
村上春樹は、30年後の評価を待ちます。漱石は、後継者に恵まれなかった。自分で大きな荷物を背負えるだけ背負って、芥川のような不肖の息子を残して舞台裏に退いていった。明治の坂道というのは、よほどきつく、漱石にいかに並はずれた体力があったかということだと思います。あとそれから、小林秀雄。読んでわかったのは「ワイはワイであって同時に本居宣長である。どや」というしたり顔だけでした。実に、可愛げがない(なぜ学校教師は勧めるのか)。
対して、女性の散文体は平安時代からの連綿たる歴史がある。そう、三島由紀夫が歯ぎしりをしています。情感(形容詞。典型が「をかし」「かわいい」)を記す平均的な水準が男性よりもずっと高いのかもしれません。例えば、樋口一葉、幸田文、向田邦子、鈴木いづみ、武田百合子、米原万里、宮部みゆき、高村薫、ナンシー関、俵万智。岡崎京子も。翻って、三島は、円地文子が、例えば「女坂」で明治を匂わせる手つきに嫉妬していた節があります。三島は、上手いけれど、同時に下手です。「それは俺のせいぢやない。諸君、共に死なう」。嫌です。お断りします。
僕の記事に言及してくださった土曜日の猫さんは、文系理系の傾向に触れています。でも、ものを読んだり書いたりするのに、文系も理系もないはず。ただ、おもしろいと感じる気持ちがそこにあるだけ。土曜日の猫さんの、もどかしい文体には、思考の訓練をした人の跡が感じられて、僕は実におもしろいと思います。
そんな土曜日の猫さんの目に、もの心がついて30有余年、僕のテキストが文章を習った人のように映ったとしたら、独学の身として、実にうれしいことです。切れ味に劣る文系の身に出来るのは、蓄積と発酵でした(果たして、うちのばあさんが遺してくれた30年ものの梅酒のように、いい味に漬かっているだろうか)。重ねて、ありがとうございました。
ついでに、これまでの半生(平均余命の半分強)の読書歴を振り返ってみました。ざっと、1日2~3冊、総量2~3万冊くらい読んできた計算になります(ねこちゃんたちのお世話に明け暮れたこの1年間を除く)。鈍牛(例えば、大平正芳を想起)でも、そこまですればある程度は自分の中に動かないものができるのではないかと信じてやってきた甲斐がありました。しかし、自分では努力をしたつもりですが、お作法として身に着いたものは意外に少ないこともまたわかりました。
読点は極力、打たない。係り受け(修飾/被修飾の関係)は原則として寄せる。名詞の連続で攻める(日本の古典には「○○尽し」という伝統があります)。常体と敬体は、たまに緩急をつけるために僕は好んで混用します。僕にとっての文章作法はこれくらいです。僕の声が聞こえてくれるといいのですが。それにしても「話すように書く」、それだけのことが難しい。近代口語散文体の問題は、僕自身にも影を落としています。
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ロゴスとエモーションの両方をほどよく和えた、ホマレ姉さんの料理のような文章を、いつか書ければと願っています。
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追伸:
昭和60年当時、目指したのはここやった。そやけど、練習方法をまちがえたらしいわ。