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illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ある伝説的な野球選手とスポーツライターの話をしたい

ある伝説的な野球選手とスポーツライターの話をしたい。久しぶりにはてなに足が向いて、ここならば分かってくれる人がきっといるだろうと思ったからである。

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書こうとおもったきっかけは、五郎丸たちが表紙を飾る2016/2/18号の『Number』の末尾に、鷲田康と編集部が、葬儀を思わせる、衝撃を気取った、清原和博への決別記事を記していたからである。読むべき中身は何ひとつない。だから諸賢は手にする必要も、買う必要もない。一応のたしなみとして、リンクは貼っておく。

number.bunshun.jp

代わりに、まったく別の、以下の引用を読んでほしい。

ただ、引用はどうしても断片的になる。そこでできれば1冊買って(僕の記事のリンクから飛ぶ必要はない)、行間を含めた全体から、20年前の日本に、そのスポーツライターが残してくれていた、いまはもう消えてしまった雰囲気のようなものを、感じ取っていただければ、と思う。

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 知り合ったのは79年の日本シリーズがきっかけだったが、ぼくはそのはるか前から江夏を知っていた。ぼくがまだ学生だったころ、プロ入り2年目の、阪神タイガースの19歳のピッチャーが「大記録」に向かって快刀乱麻のピッチングを展開していたからだ。奪三振記録である。江夏は9月の中旬の段階で350を超える三振を奪っていた。最近では1シーズンに200三振を奪えばまず間違いなく奪三振王の称号を与えられるだろう。それを思うと19歳の江夏の三振奪取率がどれだけハイペースであったかがわかるだろう。

 

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記しているのは当時(1993年夏)45歳の山際淳司。知り合ったきっかけというのは、のちに「江夏の21球」として結実するノンフィクションの取材である。江夏がシーズン401奪三振の記録に向かっていたのは1971年。山際さんは中央大学に通い、ご本人いわく「なぜか5年目も籍を置くことになってしまった」学生だった。後楽園のカクテル光線を浴びたマウンドには江夏がいて、それを普段はテレビやラジオで、気が向いたときには水道橋に足を運ぶ、つまり、僕たちと似たような学生時代を過ごしていた。

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「最近と違ってコーチが何でも教えてくれるようなことはなかったな」と、江夏はいっていた。

「まともなカーブが投げられなかったから、オールスターのときに金田さん(正一、現・解説者)に聞いたらバカモン、といわれたよ。そんなものタダで教えられるか、ってね」

江夏はマウンドでは大胆なピッチングを見せるが、その反面、デリケートで繊細なところがあった。これは江夏とよもやま話をするようになって気づいたことだ。人付き合いは上手ではない。おのずとチームメイトとは距離を置くようになり、それを埋めようとするとかえってぎこちなくなり、やがて孤立してしまう。阪神、南海、広島、日ハム、西武と移籍を繰り返したのも、背景の1つにそういう面があったからではないかと思う。

 

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勘のいい読者は、ここで、これは清原和博のほのめかしだなと気づいてくれたのではないかと思う。御意。引用を続ける。

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プロ入りしたころからそういう傾向はあったはずだ。どちらかといえば無口で、口を開くとつっけんどんな言い方になったり、突っ張った物言いになってしまう。あいつは生意気だといわれたこともあったろう。それに対抗するにはマウンドで実績を残さなければならない。19歳の江夏は傲慢にも見えるほどのふてぶてしさを発揮しながらも、じつは必死だったのだ。

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江夏の、表向きの強さと、内面のナイーブさを山際さんは正確に理解している。そのような二面性がなければプロとしてはおそらく大成しないだろうし、だからこそ、1人の理解者を得ることが、難しい。

一方で、1971年から8年間、山際淳司江夏豊をそのつもりで見てきたのではなかっただろう。デビュー当時の山際淳司は、スポーツライターになるつもりはなかった。彼は、ほぼ同世代の江夏との関係を深めるにつれて、エースという生き物の奥深さと、そのエッセンスを凝縮したような背番号28に、魅かれていったのだと思う。

二人は、つまり、79年の日本シリーズをきっかけに、友達になったのだ。

そして「江夏の21球」執筆時には、1971年当時の江夏の心象風景を、かなりきめ細やかに捉えることができていた。それがあるから、あの短編は山際さんの音楽的なレトリックとも相俟って、光を放ち続けるのである。ただ劇的な場面だからではない。

賢明な読者はここで、はて、清原和博には「涙の日本シリーズ」のほかに、そのようなまばゆい場面が、そしてそれを紡いでくれる伝記作家がいてくれただろうかと立ち止まってくれたことだろう。御意である。

引用に戻る。

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明日は先発するという前の晩、蒲団に入って天井を見上げると板の節目が見える。そこに向かって寝転んだままボールを投げ、10球続けてストライクをとれたら納得してぐっすりと寝られるだろうとボールを握る。ところが10球目でボールはコースを外れ、また最初からやり直し。ルーキーのころは祈るような気持ちでそんなことまでしていたよ、と江夏はいっていた。

耳に底に残ったまま消えようとしない話の1つである。

そのうちチャンスを作ってかれとキャッチボールをしてみたいと思ってる。

 

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引用はすべて「ぼくと11人のルーキーたち」(角川文庫『彼らの夏、ぼくらの声』P.143-145)から。横書きにした都合で、漢数字を算用数字に改めている。初出は、「就職ジャーナル」1992年10月号から1993年9・10月号。この9・10月号の江夏の節をもって、「ぼくと11人のルーキーたち」は完結している。11人には、江夏のほかに、タイソン、清原、武豊貴花田、亀山勉、三浦和良、ボビー・ジョーンズらが取り上げられている。

 

彼らの夏、ぼくらの声

彼らの夏、ぼくらの声

 

 

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初出にまでこだわったのには意味がある。江夏は93年の3月に覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。僕の記憶では、山際さんは、事件についてコメントをしなかった。NHKサンデースポーツ」のメインキャスターになるのが94年の4月。もし1年少々早ければ、何かいわなければならなかったはずだ。それは、山際さんにとってつらいことだったろう。

当時大学2年生(2回目)の僕は、日本の外にいて、江夏逮捕のニュースを知った。北米の安宿で、ネットスケープナビゲーターから、何かのニュースサイトで見て、衝撃を受けた。山際さんは何か発信するに違いない。アメリカにいてはキャッチするのが難しい。そう思って、春の学期の始まる前だったこともあり、フライトを予定よりも早めて帰国した。

山際さんは、沈黙を守った。非難も、擁護も、しなかった。

山際さんがおそらく終生の願いとしたのは、取材対象をやわらかく包み、レトリックによって居心地のいい空気を生み出す、スポーツライティングである。その文体には、江夏のスキャンダラスな事件はうまく収まらなかったのだろう。もちろん、山際さん自身の人柄と、江夏との関係も、ある。

94年になって、「就職ジャーナル」に掲載されたこのエッセイを街で偶然に手にしたときには、山際さんの「そのうちチャンスを作って」の意味するところが胸にこたえた。上に引用した原稿の執筆期間にあたる93年の夏は、山際さんにとって、ずいぶんつらい季節だったのではないかと想像する。鷲田康のように書いてしまえれば、どんなにか楽だったはずだ。

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「就職ジャーナル」にメッセージが掲載されてから1年半、95年4月27日に、江夏が仮釈放された。

山際さんはそのころ、がんを患っていた。江夏の仮出所から1か月後、5月29日に、山際さんは世を去る。

キャッチボールは、出来たのだろうか。江夏は、果たして病床の山際さんを訪ねただろうか。スポーツライティングを志したタイガースファンの書生として、江夏を許すことが出来るまで、僕にも、ずいぶんと時間が必要だった。

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以上を比喩的な伏線として、清原和博とその周辺のことを、記しておきたい。

  • 清原和博は、おそらく、また手を出すだろう。
  • もし再発を防ぐ内面からの可能性があるとすれば、清原和博の黄金時代であった高校時代から、もういちど、伝記作家が「江夏の21球」に相当するような物語を紡ぎだす仕事が必要だと思う。
  • 清原和博は、逮捕されてなお、「Number」および鷲田康に代表されるような、一見良識派を気取ったメディアから消費されることに、ますます居場所をなくす思いを募らせるだろう。
  • 1967年8月生まれの清原と同世代のスポーツライターに、俺は一縷の望みを託したい。
  • 手がかりは、ある。山際淳司がプロ入り間もない清原和博のことを正面から取り上げた、清原に対する数少ない本格的な言及、『ルーキー』がそれである。俺なら、まず伊野商の渡辺智男に取材に行くだろう。ほかに、中山裕章(難しいかな)、田上昌徳、藤原安弘(東海大山形。29-7のマウンドを守った)、取手二の石田文樹、甲西の石踊雄成。
  • 彼らは、いまでも、清原は自分の人生の中で光を放つ友達だと思っているだろう。山際さんの「ルーキー」には、それを予感させる記述がある。
  • 桑田や、まして野村貴仁のところに行ってどうする。
  • 野村克也や森のところも、同様。江夏にとっての藤本定義おじいちゃんのような働きを、彼らはしたことがあるか。その意味で、ムース(野村克也)が森昌彦の責任だといったのは、さすがの慧眼である。
  • 俺が自分で取材をと思わない理由は、伝手がないこともあるが、それよりも清原和博は、俺にとってスターではないからだ。例えば、(よくないたとえだが)ランディ・バースが不祥事を起こしたら、俺は残りの半生をかけて、弁護側に立ってもいい。清原和博は、俺にとって、そこまでの存在ではない。それを隠して書き記したとして、取材相手にも、読み手にも、伝わってしまう。
  • 岡崎満義(「Number」初代編集長)は、いまからでも、「Number」編集部にカチコミをかけ、創刊時の精神に立ち戻るよう訴えるべきである。

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ルーキー (角川文庫)

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清原和博にとって、大切なのはこれから。

薬を抜くという意味ではない。清原が、18歳からの物語をやり直すには、それ以前に遡った物語、同伴者が必要だ。ごく一握りの天才(それも弱さと虚像を抱えた)が、まっとうな道を歩むには、必要なことである。それすらも、わからなくなってしまったのか。お前ら「ヘルタースケルター」を見たんじゃなかったのか。

閑話休題

まあ、そんな手間をかけるよりも、「番長」というよくわからないキャッチフレーズと、写真で目くらましをかけたほうが、売上になる。野村貴仁のことも、同じ。

全体としては、それもやむなしだと思う。

だがしかし、である。

食い物にしている分際で、断罪はないだろう。鷲田康よ、書いていて、そうは思わなかったのか。もし思っていたのだとしたら、あのタイトルと筆致と、紙面構成は拙い。

誰か俺のほかに1人でいいから、清原和博の、野村貴仁の報道を目にしたときに、だがしかし、と思ってほしい。その願いを込めて、この記事を書いた。

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ちなみに、出所後の江夏は、インタビューなどでしばしば「山際さん」と呼んでいた。そのときに垣間見えた、険しさと赦しを湛えた表情。それは、彼はいまでも心の中で山際さんとキャッチボールをしているに違いないと感じさせる、十分なものだった。

 

 

 

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

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 (追伸)「週刊プレイボーイ」は、清原和博が出所した後、再出発を、かならず助けるように。そのときには、くれぐれも、「番長」を使わないように。