illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

高橋一三を知るための基本文献

高橋一三が亡くなった。

matome.naver.jp

www.huffingtonpost.jp

www.yomiuri.co.jp

追悼の意が感じられない記事ばかりで残念に思う。「星飛雄馬のモデルになった」とか。高橋の投手人生を「へーへーネタ」として消費していいとメディアは語っているに等しい。

生前の高橋一三の人柄と野球人としてのエッセンスを知るための基本文献はおそらく3つ、あるいは4つである。2つは海老沢泰久によるもの。1つは瀧安治(と岡崎満義)によるもの、もう1つは新宮正春によるものである。

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「ただ栄光のために-堀内恒夫物語」。のっけから堀内の影で恐縮だが、高橋ほど堀内を見、堀内ほど高橋を見た同時代の投手は、おそらくいない。高橋は「左のエース」と呼ばれた。「左の」という形容詞のつかない、1970年代のジャイアンツのエースの半生を知ることによって、高橋のことがもっと好きになるはずだ。堀内が嫌いといっているのではない。通算203勝(堀内)と167勝(高橋)の、恵まれなかった36勝の分だけ、味わいは高橋一三のほうが上である。そのことはふたりの晩年の顔つきをみればわかる。

読んだかにゃ🐱では次へ。

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2作を紹介したが、推したいのは同じ短編である。「野球の都を離れて」という。上の2冊どちらにも収録されている。高橋一三ジャイアンツから日ハムにトレードに出され、新天地で腰の故障からみごとに立ち直るまでを軸にした物語だ。

ジャイアンツを追われた/選ばれなかった男たち、というのは海老沢が好んで描くテーマの1つだ。が、その中でも高橋を描いたこの作品は際立っている。たとえば、広岡達朗ジャイアンツ、川上、正力、という父性に対する復讐=父殺しの色が濃い。星野仙一しかり。平松政次にもいくぶんその匂いがする。やむをえないだろう。それに対し、高橋がジャイアンツに対して抱く思いは対照的だ。彼は海老沢に、次のように話している。

「うちの息子なんか、いまのチーム(引用者注-日ハム)のことは知ってても、ぼくがジャイアンツにいたことはほとんど覚えてないんですよ。小学六年になるんですけどね、このごろ誰に話を聞いてくるのか、それが分かるようになってね、<おとうさん、巨人にいたんだって>とか、<おとうさん、堀内さんや王さんと友だちなんだって>とか、びっくりしたような顔つきでぼくにいうんですよ。

 

ぼくはいってやるんです。おとうさんはV9時代にピッチャーをやっていたんだぞ。それでちゃんと二十勝したこともあるんだぞって。相手は自分の子供だけど、自慢げにね。とにかくこれは、ぼくのいちばんうれしい、ただひとつの自慢話ですよ。あの次代に、一軍のベンチにはいれる選ばれた二十何人かの中にはいっていたんですからね。そしてあのマウンドに立って投げたっていうことは、ぼくの一生の宝物ですよ」

海老沢泰久「野球の都を離れて」(1982)『みんなジャイアンツを愛していた』および『ふたりのプロフェッショナル』所収。引用は後者P.219-220に依る

次のような描写もある。

「彼はどちらかといえば無口だし、マウンド以外ではいつもはみかみがちににこにこしている」

同P.220

3点目、記録や投球技術面では、文藝春秋『魔球列伝』所収の記事がいいだろう。ジャイアンツに入団した高橋に「外角へ逃げて落ちる球」をマスターするように命じたのは藤田元司であった。

books.rakuten.co.jp

藤田のことを知らない、かわいそうな若い読者には以下の拙記事をおすすめしたい。

dk4130523.hatenablog.com

4点目、珍しいところだが、新宮正春(編著)「プロ野球グラフィティ'84 読売ジャイアンツ」P.99に、この年から背番号80をつけて投手コーチを務めることになった高橋の写真(ほんとに、はにかみがちににこにこしている)と短いコメントが載っている。

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「古巣に戻ったのを機に、ぼくなりの財産を選手に伝えていきたい」

1946年6月生まれの高橋は、84年のシーズン開幕当時38歳。若い投手コーチである。彼はジャイアンツから日ハムにトレードに出された後、みごとな復活を遂げ、83年に引退。そしてこの84年に、9年ぶりに「野球の都」に戻ってきた。うれしかっただろうと思う。

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