オレシピさんの「豚レバーの味噌漬け」を仕込み終えたので児玉隆也の話をしたい。
作り置き可能。常備つまみに「豚レバーの味噌漬け」 - オレシピ - 俺のレシピはお前のレシピ-
またかと。スポーツノンフィクションのやさぐれ話はどうしたのかと。すまない。山際淳司/海老沢泰久は俺にとっては読み味わうもので論じる余地は実は少ないのだ。なら児玉隆也はいいのかというと、いささかの使命感がある。児玉の著作はおそらくすべてコレクションしていると思う…思っていたが実はそうではなかった。母ちゃん勘弁。山際作ですらいまだに抜けがある。
児玉隆也『テレビ見世物小屋』(いんなあとりっぷ社/昭和50年)。
あかん。いんなとりっぷの霊友会といえばピーでありピーでありピーである。花田虎上。読めんがな。石原慎太郎。これは読める。
しかし版元があれだからといって著者/著作にはいささかの翳りもない。
ナンシー関の登場前夜、『週刊TVガイド』(1972年4月28日号から1974年3月29日号)に、児玉とそのスタッフがテレビ業界の裏側に取材をし、至極まっとうな声を収めた同時代史である。20篇のルポルタージュが収められている。タイトルを列挙する。
- 消えた画面はどこに行く
- テレビに雪が降らない
- ドキュメント時代のドキュメント不足
- 「特別番組・陛下と語る」は放送されない理由学
- 見た、暮らした、撮った、それでも臭いは写せなかった
- 「八月十五日」はやっかいだ
- 原作―という名の地顔、脚色―という名の整形手術
- (笑話集)子役とその母
- テレビ選挙のスタジオは学芸会のようでした
- ホームドラマの中の暮らしの知恵集
- テレビ料理番組と同じ料理を作る妻
- おとなたちよ、もっと どく をもって わらえ
- 亭主のいぬ間のセックス番組
- おんな相撲ぺちゃぱいコンテストがなぜ悪いのよ!
- みてみなはれ おおさかのわらい
- 歌手・東海林太郎 直立不動で生きた人への弔辞
- 情けなや…ご挨拶のできないスターたち
- 歌唄いの人間音痴社会音痴
- 病気になったら何としよ…
- <一九七二年版>珍作=百人一首
- (解説)児玉隆也氏のこと 桑野雅幸
ひとつひとつ解題が必要な質と量をもっているので、安易な総括は避けたい。が、本作にはおおまかにいっても2つの美点がある。1つはテレビ番組制作の内側からの、40年後のいまに通じる批判の声を収録していること。
「テレビが視聴者に迎合してしまった結果が、自分で自分の穴を掘るような結果を生んだわけで、これには深い反省を感じます」
だから、小田さんは今年の"終戦特集"では、「ぼく自身を告発する意味を含めて、テレビを告発するようなディスカッション」を計画している。
「八月十五日はやっかいだ」(前掲書P.66)
もう1つは、テレビを通じて送り届けられる笑いに対する根源的な懐疑である。テレビは恥の感覚をあいまいにする。
本来、日本人の笑いの根源には性があった。セックスが抑圧され、あるいは個人のベールの内側にある時代というのは、誰もが笑いに餓えているから非常に笑わせやすい。だが、今のようにセックスが露出されている時代には、笑いはその人間にとって特に欲しいもの、必要なものではなくなるから、笑いを発見する能力がなくなるのではないが、どうでも良く、だらしのない笑いに日本中が沈没しそうになる。
「おとなたちよ、もっと どくをもってわらえ」(前掲書P.136)
見事というほかにない。いま『週刊TVガイド』ほかテレビ関連の雑誌にこれほどの見識が載ることはない。NHKはナンシー関をドラマ化して優等生のポジションに一石を確保したようだが、彼女がドラマ化を望んだかどうか、著作を読めばわかろうというものである。俺なら、うつみ宮土理と松岡修造、田中邦衛の鼎談で特番を組む。トシちゃんに加わってもらってもいい。
児玉とナンシーに直接の接点があったかどうかは知らないが、そこには思想史/精神史的なつながりを見出すことができる。はかない線が切れかけていることを、かつての国営放送は鋭敏に捉え、ドキュメンタリーにしたものである。