illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

私は志ん生になりたい

 小説が何であるかはわからないけれど40年も本を読んで暮らしていると経験的にわかるといって差し支えなさそうなことを4つくらいは挙げられる。1つは私小説の大半はつまらないということ。もう1つは(私小説めいたいことですら)何を語ってもおもしろい人がいるということである。

 私小説については論じない。白樺派にはさんざん騙された。志賀直哉はおもしろくはない。武者小路も茄子の絵はよくいえば味わいがあるがそれだけ。ただし里見弴はおもしろい。語り口の妙。かいつまんでいえば小津映画だ。「恋ごころ」「妻を買う経験」。丸谷才一の解説も彩を添えている。まあでも身辺雑記の背中合わせだからね。文章はうまいっちゃうまい。別系統を承知でいえば俺の好みは岡本綺堂にあるのだが。

恋ごころ 里見トン短篇集 (講談社文芸文庫)

恋ごころ 里見トン短篇集 (講談社文芸文庫)

 

  俺が江戸明治の語り噺しに惹かれたのはその辺りを水路にしている。志賀→里見→岡本綺堂。あるいは白樺→芥川→漱石→大のつく圓朝、それから滝沢馬琴。翻って現代のほうでは丸谷才一。現代のほうでうまいんだけど苦手なのは出久根達郎。いやうまいよ。たいへんな読書家だし。尊敬もする。でも「本のお口よごし」だったら高島俊男さんの「お言葉ですが」の学識と格調を俺は好む。すまない。

お言葉ですが… (文春文庫)

お言葉ですが… (文春文庫)

 

 エッセイが嫌いなわけじゃない。月島の暮らしもむしろ好きだ。しかしだな、月島ではなくこれは本所業平のほうだが、下町の暮らしぶりを読んで笑い転げるには外せない名著がある。ご存じなめくじ艦隊。

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

 

 

びんぼう自慢 (ちくま文庫)

びんぼう自慢 (ちくま文庫)

 

 白状するが俺は志ん生に57歳で追いつきたい。足元にすがりたい。いいだろうまだ41なんだからこの先何があるかわかるまい。18のときには32で山際淳司に追いつける/追いつこうと思った。山際淳司(32)は1980年、例の「江夏の」の年/歳だ。まあ無理である(おかしいなあ)。切りなおしたいまの目標は43で松本清張だ。清張(43)といえば「西郷札」あるいは「或る小倉日記伝」である。まあ…いや何でもない。志ん生(57)は満州から帰国してなぜだか当人にもわからないうちに人気に火がついた年/歳(1947)である。これならどうにかならんか。ならんな。

 志ん生は何を話していてもおかしい。はてぶでも小説論やら読書論やらを見かけてそれなりに宇奈月温泉。もとい、頷きはするものの、何か違う気がする。本は第一義的に語り口を味わうものだと俺は思うが。小説でも随筆でもノンフィクションでもその人の声をテキストから聞くのである。違うかのう。目の前に志賀直哉がいて「城の崎にて」をやられたら俺はちょっと遠慮したい。戦時中に吉田茂(あるいは西園寺も)がお忍びで大磯に美濃部孝蔵を呼んで「疝気の虫」をやらせて大笑いしたという。ちょっといい話だ。なぜこんなにかくかくした本名のおっさんがなめくじ艦隊のようなやわらかい話を書けるまでに変化したかは謎というほかにない。


大磯城山公園 旧吉田茂邸地区

 諸君その謎を知りたいと思わないか。俺は知りたい。アドバイス罪は避けたいが答えの鍵がここにある。日経はめずらしくいい仕事をした。タイトルはひどいが中身は80点。こういう目的論的なタイトルはスマイル齋藤孝に任せておけばいい。

働く意味 生きる意味 - 川村真二|日本経済新聞出版社

  • 「その恩の重さは、月とスッポンほどの違いがある」古今亭志ん生

 これだけ読んでほしい。それと村上信夫さんのエピソード。同じことをAmazonのレビューで書いてる若者がいてなんて志の高い愛い奴(ういやつ、と訓じてくれ)と思ったら数年前の俺だった。

 そうだ。冒頭に「4つくらいは挙げられる」と書いて2つはおしまいにお取り置きしておこうと思ったのだ。あとの2つは「文に主語はいらない」「読点もほとんどいらない」である。ついでにいえば雑誌記事のタイトルで「。」をむやみに打つあれはどこの女性週刊誌が始めたことか知らんが何とかならんのか。「。」は読み手に息継ぎを強いる。貴君らにそこで息を吐いて吸えと視覚から強いられる覚えはない。それすらも気づかないか。志ん生黒門町、談志、三木助、名人は1つの息継ぎにさえ細心を配った。昭和は遠くなりにけるかな。