illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

将棋エッセイスト入門/河口俊彦と升田大山の時代

 古来、将棋の強いエッセイストといえば誰であろう。

 この切り出しから山口瞳は容易に想像がつくはずだ。 

血涙十番勝負 (講談社文庫)

血涙十番勝負 (講談社文庫)

 

 本書のamaznonのレビューは辛い(ひどい)が、中身はそれほどでもない。不満には確かに頷けるが、山口以前にはこの手の読んで楽しめる将棋観戦記/自選譜/感想戦はなかった。その功績は大きい。やらかしたことには江分利満氏自身が反省しているはずなので、どうかそんなに責めないでほしい。

  次点は升田名人の上である。だいたい升田幸三(正式には、こうそう、と訓じるらしい)という名前からして将棋盤の升目であり幸いであり三であり(何のこっちゃ)将棋の名人に香車を引くために名付けられたとしか思えない。反則である。

 升田名人の上はエッセイストではない、彼こそは将棋指しであろうという向きには、ぜひ次の3冊のいずれか1つを手にとることをお勧めする。ある種の「ものすごくうまい」感が出ている。河口翁いわく「升田にはよき伝記作家がついていた(大山にはいなかったらしい)」である。升田名人の上の自伝はどれも升田大先生自身の声が聞こえてくるようだ。それにしても香車一本槍の書名である。もうちょっと何とかならんか。湊かなえ「告白」の先駆けか。 

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

 

  

勝負 (中公文庫)

勝負 (中公文庫)

 

  

王手 (中公文庫)

王手 (中公文庫)

 

 3人目は河口俊彦翁である。河口翁は将棋が弱い。そりゃ俺たちよりはずっと格上だが将棋を本職とする世界では弱い(ご本人が記しているので勘弁)。翁の棋譜はおそらく後世には残らないだろう。神は棋譜を残す役割を同級生の芹澤名人に委ねた。枠は一杯である。芹澤名人といっても芹澤名人ではないほうの芹澤名人である(再び何のこっちゃ)。

 代わりに将棋の神は河口少年に命じた。「君は将棋はほどほどにして、周りをよく見て文章を磨くように」

 そうして著されたのが次の2冊(ないし3冊)である。大山(康晴)から中原(誠)、谷川(浩司)に受け継がれた名人位が、羽生善治とその世代によって80年末から90年代にかけて容赦なく奪われていく、その時代相を描く役割を河口は委ねられた。 

一局の将棋 一回の人生 (新潮文庫)

一局の将棋 一回の人生 (新潮文庫)

 

 

人生の棋譜この一局 (新潮文庫)

人生の棋譜この一局 (新潮文庫)

 

 名著と思う。

 大山/中原/谷川時代の終焉は、実は升田の人生の終局(1991)とも重なっていた。その升田が亡くなり、大山も亡くなった告別式(1992)で、河口証人は万感の思いを込めて次のように語る。河口翁の散文の中で僕がとりわけ好きなシーンの1つだ。

 升田元名人が亡くなったとき、棋士の生涯を考え、みんな仕合わせな人だったと思った。言いたいことを言い、やりたいことをやった一生だったのだから。

 大山はちがう。言いたいことの半分しか言わず、やりたいことも半分しかやらなかった。将棋連盟内部の全員に好かれようと努めたが、それも報われなかった。大山が好んで書いたのは「忍」の一字だが、まさしく忍の人生だった。なんのために忍んだかといえば、将棋に勝ちたいからである。そもそも、生きることが、勝つためだった。その意味で、真に偉大な将棋棋士であり、こんな天才は二度と現れないだろう。

河口俊彦「不世出の名人」新潮文庫『人生の棋譜この一局』所収P.277-278

 告別式で升田未亡人にあいさつしたら、「もうこのようなときでないとお会いできなくなりましたね」と言われ、こみあげてくるものがあった。将棋史上の黄金期というべき、升田、大山時代は終ったのである。

同P.280

 河口翁は歴史の役回りのうえで大山にはなれなかった。中原にも、芹澤にも。米長にも。しかし大山の足跡は大山の側でよく見ていた(ここ点々打って)大山以外のだれかが記さねばならない。神はその役割を河口に託し、河口は進んで自らに任じた。 

大山康晴の晩節 (新潮文庫)

大山康晴の晩節 (新潮文庫)

 

 僕の直観が間違いでなかったことは、上の引用と、本書の末尾を読んでくれればわかる。河口は升田、大山時代の黄金の反射光を浴び、それは至福と薫陶と才能として、『一局の将棋一回の人生』『人生の棋譜この一局』に見事に結実した。羽生世代の近未来を見通す目の確かさには驚くべきものがある。

 ときどき読み外れもあるけれど。

 棋譜も彩りを添えている。未読の方にはぜひ手にとってほしいと思う。


羽生善治 VS 中原誠(1989年) - YouTube