枕
いきなり引用では収まりがよくないのでアル・カンパニスの名著を紹介する。これと海老沢泰久の「野球をかえた1冊の本」を読めば、気分は監督就任を要請された川上哲治である。
ウィキペディアが伝えるMLBフリーエージェント制の発足
本題に移る。フリーエージェント制のことである。ウィキペディアの記事を読んでいて、余計なことのようだがちょっと口を挟まなければと思った次第。
…(引用者注:アンディは1974年の)オフに球団との契約交渉が決裂し、契約書にサインしないまま1975年のシーズンを迎えることになる。球団はオプションとして契約を1年延長する権利を行使する、という形を取った。
同年はいずれもリーグ最多の40先発・19完投・7完封・321.2イニング、リーグ3位の19勝、リーグ2位の防御率2.29を記録するなど大活躍し、前年に続いてゴールドグラブ賞を受賞。オフに調停を申請し「1975年はオプション年としてプレイしたのであり、球団にはもはや拘束する権利はなく、現在はどこの球団にも所属していない」と主張した。裁定の結果「球団との契約の期限が切れたら他の球団と交渉するのは自由」という判断が下され、フリーエージェント制度が生まれるきっかけとなった。
ウィキペディア「アンディ・メサースミス」の項「ロサンゼルス・ドジャース」から
要点の整理
要点を整理する。
- アンディは1974年に好成績を残す。
- オフに球団との契約交渉が決裂。契約書にサインしないまま1975年にプレイする。サインなしの状態に対し球団はオプション行使の形で契約を1年間延長する形をとった。
- アンディは1975年にも好成績を残す。
- アンディはオフに調停を申請。「1975年のプレイは球団のオプション行使によるもので、球団にはもはや拘束権はない」と主張した。裁定の結果アンディには「球団との契約は切れている」「他の球団と交渉する自由」が認められた。
- 以上がフリーエージェント制の生まれたきかっけである。
このストーリーは、ウィキペディア「フリーエージェント (プロスポーツ)」の項「メジャーリーグベースボール」で語られる内容と軌を同じくする。
モントリオール・エクスポズのデーブ・マクナリー投手やロサンゼルス・ドジャースのアンディ・メサースミス投手が、1975年は球団側から提示された条件に不満を持ち、契約書にサインしないまま1年間プレイした後、「球団に自身を拘束する権利はなく、他球団との契約交渉は自由にできる」と主張したことに始まる。1975年12月21日に第三者の調停委員会の主任を務めるピーター・ザイツによる仲裁で、2人は「自由契約選手である」という裁定が下った。翌1976年2月13日にジョン・オリバー連邦地裁判事もこの裁定を支持した。経営者側が野球選手を縛ってきた制限事項が廃止されることになり、MLB機構側と選手会との話し合いの結果、フリーエージェント制度が生まれた。
客観史実というものがもしあるのならば、これらの叙述の通りなのであろう。
山際淳司の見立て
山際淳司がこのテーマに少し違った角度から光を当てているので紹介したい。
(引用者注:1974年オフの)契約更改は不調に終った。
その原因は「ノントレード条項」にあった。年俸交渉ではほぼ合意に達したものの、メッサースミス(アンディ)とドジャースのあいだでは、もうひとつ話し合うべきテーマがあった。
それが「ノントレード条項」で、メッサースミスは選手としてこのドジャースに骨を埋めたいから、絶対にトレードに出さないという一項を契約書に書き添えてほしい、と要求した。
ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは拒否した。
(中略)
選手の保有権は球団にある。
選手のトレードを決めるのは球団であり、選手はそれに対してノーとはいえない。それがトレードというものだった。
山際淳司「チーム愛 すべてはそこから始まった」『ウィニング・ボールを君に』実業之日本社所収P.179
それでもメッサースミスは75年のシーズンをドジャースでプレイすることができた。時代がのんびりしていたのだろうと山際さんは見る。それに何よりも、と続けるここからが山際さんの真骨頂である。
かれは何よりもドジャースのユニフォームを着て野球をつづけたかったのだ。
ユニフォームを縁取る文字の色は「ドジャーブルー」と呼ばれていた。明るい青のことだ。そのドジャーブルーのユニフォームを、メッサースミスは愛していたのだろう。
そうは問屋が卸さないのは、洋の東西を問わない。
ところが、事態は思わぬ方向に進んでいった。
メッサースミスのケースが調停にかけられたのだ。メッサースミスには選手会の初代委員長、マービン・ミラーがアドバイザーとしてついていた。ミラーは野球選手の権利拡大に貢献した人物である。選手会のストライキも、のちのかれの指導のもと行われる。
調停の結果は意外なものだった。
簡単にいうと―
メッサースミスは1シーズン、契約書にサインすることなくプレーしている。したがって、球団のメッサースミスに対する保有権は消滅しており、メッサースミスはドジャースに拘束されることなく自由に契約先を決めることができる…というのだ。
同P.180
山際さんのストーリーに依拠するならば、取り残されたのはむしろメッサースミスのほうだった。メッサースミスの希望はドジャースとの永続的な再契約である。その彼にフリーエージェントの権利が与えられた。
これにはオマリー会長も処遇に窮したという。経営者にとって、正直にいえば、フリーエージェント制は得体の知れないお化けのようなものに見えただろう。そのころオマリー会長はブルックリンのエベッツフィールドから西海岸のロスにフランチャイズを移す構想を立てているという事情もあった。大掛かりな改革である。よりによってこのタイミングで、と彼が思ったとしても不思議はない。
行き場を失ったメッサースミスはアトランタ・ブレーブスと契約、その後ヤンキースに移る。メッサースミスの成績は急降下するのだが、その要因は、選手生活の晩年だったにせよ、あるいはドジャースのために投げらることがかなわない環境にもあったのではないか。
メッサースミスの望みは、数年後にかなう。プロとしてはもうこれが最後だろうというシーズンに、かれはドジャースに戻ってくるのである。79年のことで、その年のメッサースミスの成績は2勝4敗。そこで、かれは野球にピリオドを打った。
同P.181
「ぼくが望んだのはドジャースのユニフォームをマウンドに立つことだった。それだけを望んでいたんだ」
当時のアンディが繰り返し語っていたとされることばである。
コメント
すべてを額面通りに受け取るのは愚としても、山際さんのストーリーには耳を傾けるべきところがあるように僕には思える。少なくとも山際さんの記事を読んでからの僕は、メッサースミスのファンである。
長文、かつ断片的な引用で申し訳ない。この話(「チーム愛 すべてはそこから始まった」)は文庫のほうにも入っている。角川文庫の『ウィニング・ボールを君に』は実業之日本社の単行本の抜粋なのでできれば単行本を手にしてほしいが、文庫でも十分に味わいがある。