illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

満月を持て余す二人/陽水論序説

 平野謙(評論家)は思想的にも人間的にもいろいろと問題のある人物のようだが、その解説はすばらしい(ようだと用心深く断っているのは同時代として知らないためである)。とりわけ藤村(島崎)、高見順松本清張に寄せる平野の解説はさながらザトペック=村山実のようである。解説解題にいつもこれだけ全力で臨む人物を、僕は『反文学論』の柄谷行人のほかに知らない。柄谷はほめすぎたかもしれない。 

反文学論 (講談社学術文庫)

反文学論 (講談社学術文庫)

 

 ここまでなにひとつ伝わっていない自信がある。新潮文庫松本清張のコーナーに立ち寄って、ぜひ平野謙の名前を探してほしい。一読すれば抱かれてもいいと思うから。解説や文芸評論の仕事はそうでなくちゃいけない。

傑作短編集〈第1〉或る「小倉日記」伝 (1965年) (新潮文庫)

傑作短編集〈第1〉或る「小倉日記」伝 (1965年) (新潮文庫)

 

  二つの対照的な解説を読んだ。

 海老沢泰久『満月 空に満月』(文春文庫)に寄せた増田晶文と、竹田青嗣『陽水の快楽』(ちくま文庫)に寄せた見田宗介である。本編は、ともに80年代と90年代を代表する井上陽水論である。

 それぞれの解説に触れる前に本編について話す。

 海老沢の描く陽水は例えば次のようなシルエットをしている。あえて「黒い陽水」を選んで引用する。「白い」ところは海老沢さんも陽水も気恥ずかしいだろうからである。

  井上陽水は冷たい体になって横たわった父親のまえでいつまでも泣きつづけた。だが泣くだけ泣いてしまうと、気分が爽快になった。

 「いま考えるとびっくりするぐらい涙が出たんだけど、そのあと本当に気分が爽快になったわけよ。なにしろ、泣くだけ泣いたらこんなに心が軽くなるのかと思った」

 と彼はいった。

 しかし一方では、冷めた気持ちでべつのことを考えていた。

 「女はずるいなと思ったよ。女って、しょっちゅう泣くじゃない。こんなに泣いたあとの爽快感をしょっちゅう感じてるのかと思ってさ。あれじゃ体にいいはずだよ」

 海老沢泰久『満月 空に満月』文春文庫 P.111 

満月 空に満月 (文春文庫)

満月 空に満月 (文春文庫)

 

 対して竹田の描く陽水は次のような格好をしている。 

 精神は、世界を見る、つまり認識し、理解する。だが、それ以上に人間のこころは、世界を聴く。聴くことは、欲望や情念の所在を「告げ知らされる」ことだ。だからわたしがいま見出したいと思っているのは、見ること(=認識)のディスクールではなく、むしろ聴くこと(感じること)のディスクールなのである。

 だがいったいなんのために。

 この問いに対しては、陽水がつねにサングラスをかける理由として書いた次のことばで応えておくのがふさわしいと思える。

 

 たとえば、いかがわしい場所で人間の道を極めるため。

竹田青嗣『陽水の快楽 井上陽水論』ちくま文庫 P.109

陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

 

  海老沢のものは全体にちょっと食い足りない。けれどすらすら読める。文庫本にして160ページ足らずは通勤の往復で読むのにちょうどいい分量だと思う。文体も若いころの思いあふれる重厚さは影をひそめ、つるつるっとのどごしがいい。かといって陽水像が伝わってこないのではない。四十路に届いた陽水(当時46)と、海老沢(当時45)のむなしさと、行き場のない満月のメタファーが肩こりに効く。ミスチルの桜井君の描く月ではほぐれない血行というものが中年にあるのはおわかりか。若き日の柄谷は「小説はもともと『中年の仕事』だと思う、率直にいえば、ガキの書くものなど、もううんざりである」といっていた。おっさん何もそこまで見得を切ることはない。その通りすぎて身も蓋もない。


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 竹田の論はちょっとばかりくどい。陽水は論じるものではなく聞くもの、でもなく聴くもの、でもなく、メロディに身を委ねるものだと竹田はだれよりもよくわかっている(海老沢もわかっているが竹田の了解のロジックはより深い)。しかし、そうであるがゆえに、竹田は「なぜ自分にはその了解が心地よく感じられるのか」と自分に向かってフッサール的に問うのである。いいか竹田名人。そりゃ君は心地いいだろうがそのプロセスを聞かされるほうは途中でたまらない。そのことの厄介さ(ここ点々打って)に思いを馳せたことはきっとあるだろう。だが思いが理に溢れすぎている。 

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

 

 その「行き過ぎた行き届かなさ」を救済するのが見田宗介名人による解説である。君らは見田名人のことは知らないかもしれないが、名人はその昔、駒場のいまはなき900番教室というところで月曜2限だか火曜2限だかのもっとも眠い時間帯に社会学を講じてレポートを出した者だれにでも「秀」以上をくださるというホトケの見田と呼ばれた現代社会学の泰斗である。月曜か火曜か忘れたのは出ずに出して(ここも点々頼む)単位をもらったクチだからである。単位をくださったのは学生に達観していたためと思われる。そのことを後に著作を読んで遅ればせながら予感し、震え、講義に出なかったことをいたく後悔したが後の祭りである。

 「真理は女だ。」というニーチェのことばを、竹田はこの本で引用している。真理はその「実体」をつかもうとしても無意味だということである。

見田宗介による「解説」『陽水の快楽 井上陽水論』ちくま文庫所収 P.230

 ほらね。やっちまった。

 引用したいのだが見田先生のは引用がたちまち全体を損ねる不確定性原理のようなニュアンスを生命線としているのがおわかりであろうか。よって次をポチってくれ、としかいいようがない(今回の解説もちゃんと入っている。本書は全体/個々に名著である)。力不足ですまぬ。 

 何の話だっけ。

 そうだ。増田晶文の悪口をするのだった。これだけは刻んでおかねばならぬ。

 正直に告白するが私は井上陽水のファンではない。ヒット曲のいくつかは知っているもののレコードは一枚も持っていない。だが『満月 空に満月』を一読して陽水に魅せられてしまった。

海老沢 前掲書「解説」P.162

  あほか。ならば解説の仕事を受けずに断ってほしい。勇気と仁義の問題である。前の世紀末に増田がNumberでスポーツノンフィクション新人賞を受賞した掲載作を読んだときに目眩がした。これは到底だめだと思った。Numberつながりで海老沢さんの作品の解説を書く仕事をもらったのだろうが、だから何を書いてもいいというのではない。素朴信仰と告白は解説の芸にはならない。お人柄がいい方なのはいくつかの著作を読めば伝わってくるが、読者が期待するのは書き手の人柄ではない。悪びれた技術であり、悪達者である。できれば中身の伴った悪達者が好ましい。平野謙を見よ。

 増田が悪いのはもうひとつふたつある。海老沢さんの地声を勝手に想像して悦に入っているようだがそれはやってはいけないことである。それがやってはいけない(陽水も海老沢さんも好まない)ことであるのは『満月 空に満月』に手と品を変えてくりかえし書いてある。ほとんどそのことのために原稿を費やしたかのようである。具体的に示したい気持ちもするが海老沢さんの不名誉になりかねないので引用しない。

 いいたいのは増田は『満月 空に満月』のもっとも大切なところを読まずに解説の仕事を引き受けて、書いたということだ。頭を通さず目だけを通して通したつもりになったのである。また、このことは海老沢さんが万感の思いを込めて書いた「嫌われた男」(西本聖)に言及する手つきのいやらしさからもわかる。「嫌われた男」を引くとしたらそこではない。こっちである。

 七回裏のスワローズの攻撃を抑えて、その日何度目かのアンダーシャツの交換のためにベンチ裏へ出ると、ベンチのほうで新しいチームメイトたちが口々に何かいい合っている声がきこえてきた。彼らは西本には信じられないことをいい合っていた。

 「西本さんがいいピッチングをしてるんだ。なんとかして西本さんに勝たせてやろうぜ」

 西本は感激した。彼はジャイアンツでは攻撃陣のそういう声をきいたことは一度もなかった。西本が投げているときばかりでなく、江川が投げているときでも同じだった。ジャイアンツの選手は誰でも勝たねばならないとは思っているが、誰かのために何かをしようとは誰も思っていないのだ。

 海老沢泰久「嫌われた男」『ヴェテラン』所収 P.50 

ヴェテラン (文春文庫)

ヴェテラン (文春文庫)

 

 このように記すと何を偉そうにとかお前くらいの海老沢読みはいくらでもいるとか反感を買いそうだがその通りである。正直にいえば僕は日本で一番の海老沢読みであると思っていた。返上する。二番である。一番はこの方だ。

直木賞作家・海老沢泰久作品目録

 メールで短いやり取りをしたことがある。僕が藤本義一さんから何かのエッセイで賞をいただいたという話をしたら「自分は海老沢さんから受けたい」「実は来月の阿刀田さん主催の雑誌の企画に超短編ショートショート)が掲載される予定です」とおっしゃっていた。「ぜひ第1回の山際淳司賞をもらってください。自分は第1回の海老沢賞を目指します」ともおっしゃっていた。

 以上は自慢ではなく自戒である。書評や解説には向き不向きがあるという話でもあり、平野謙(評論家)は新潮文庫松本清張で、平野謙(野球)はウィキペディアなんか読んでないで海老沢泰久『ヴェテラン』(新潮文庫)所収の「成功者」を読んだらどうだというステマである。


帰れない二人 / 井上陽水with忌野清志郎 - YouTube

(追伸)海老沢さんが陽水に仮託して「帰れない二人」をほめている風情が伝わってきてうれしかったので書いた。勢い余った。清志郎生きろ(´Д⊂。