illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

うちの爺さんが創価学会に「うるさい」ほか5原則で折伏を押しのけた話/秋の新興宗教

今週のお題「秋の新○○」

 

 ここ半月のあいだに2人の方から「旦那の弟の初めてできた恋人が」「結婚を考えている彼女が」『創価学会だと打ち明けてきたんだけれどどうしよう』という相談を受けた。

 

 むかし日本には「主義者」ということばがあって、平たくいえばそれはマルクス主義者のことを指した。これも思い切りかいつまんでいえば近代日本には世界をまるごと体系として語る観念が仏教伝来(6世紀)以来、キリスト教(16世紀)、マルクス主義(20世紀初)と、ちょうど忘れたころにやってきたサードインパクトであったためにみんなが拒絶反応を起こした、という仕組みで語られることが多い。

 次が創価学会折伏大行進(1950s)であろうか。もっとも前三者に比べれば毛が抜けたようなものである。ぱらぱらとめくった「人間革命」はポエムとして、グラフSGIは色合いの変わった写真集として、以上の意味はないように感じられた。生活互助会と集金システムとしての有効性は否定しない。むしろ畏敬の念すら覚える。また、聖教新聞の色物/異端通信としての面白さは認めるにやぶさかでない。赤旗と似た意味で。

共産党宣言 (まんがで読破)

共産党宣言 (まんがで読破)

 

 僕の爺さん(1921-1996)のことを思い出した。

 上州(群馬)赤城にルーツを持ち足利で育った、檀一雄の後輩、あいだみつをの先輩である。檀一雄のことは「あの人は任侠だ」あいだみつをのことは「あいつはバカだ」といっていた。わが爺さんながら旧制足利中学から旧制なんとか高校に進んだ田村隆一に似た達筆の才人である。羽振りのいい割烹料理屋だか船宿だかに生まれ、安田善次郎にあやかって名前を授かったと聞いた。

 爺さんは貴重な青春を戦争にとられた。大陸を転戦し終戦は大洗で迎えたらしい。らしいというのは昭和20年の夏に「俺は戦争と天皇のことは金輪際口にしない」と決意したためである。戦後は払い下げられた中島飛行場跡地で養鶏と果樹園をやって暮らしを立てた。

 爺さんが戦後に最初に頭を抱えたのは隣を創価学会に食われたことである。隣のタカナシさん(仮名)は支部のポストに就いたという触れ込みで毎晩「南無妙法蓮華経」をやった。昭和30年の田舎の一軒家に20人から30人が集まる。間に果樹園と畑を挟むから100mくらいの距離がある。それでも耳触りである。そして昼間は何だかしらないが誘いにくる。

 これを爺さん(34)は5原則でシャットアウトした。

  • 「うるさい」
  • 「トダなんて奴は知らない」
  • 「俺はお前らに押し付けはしていない」
  • 「俺はお前らのお経に我慢している」
  • 「だからせめてお前らも少しは遠慮しろ」
  • (後にイケダはバカだ、読まなくてもわかる、が加わる)

 おかげでうちは折伏を免れ、一帯でも一目おかれる一家になった。

 5原則以外のことは口にしないのがよかったらしい。らしいというのはずっと後になって婆さんから聞かされたからである。爺さんは自身は生前ひとことも話さなかった。あるときは「そんなにありがたい教えなら本人を連れてしゃべらせたらどうだ」と売り言葉に買い言葉で応じたところ本当に県支部か東京から幹部が家にきたそうだ。「連れてこい、はお爺さんには珍しい失策だったわね」と婆さんが高校生くらいになった僕に教えてくれた。せっかくわざわざ足を運んでくれた幹部をどうやって押し戻したかを聞かなかったことが悔やまれる。

 爺さんが次に頭を抱えたのが大切に育てた長女を左翼崩れにとられ、しかも女手しかなかったのを幸いと婿養子に入られたことである。1970年頃の話と聞いている。爺さん(49)は、

  • 「俺は家では戦争と天皇の話はしない」
  • 「だからお前は共産党の話をするな」
  • 「ここは俺の家だ」
  • 「俺から見たらお前は馬の骨だ」
  • 「賢い馬は黙って働く」

を5原則として押し切ったらしい。らしいというのは父親から後に思い出話を聞いたからである。「娘はやらない、とはいわない。ただ、俺はこうだ、としかいわなかった。立派な人だと思った」とは父親の弁である。参考までに新左翼はこういう視点と論法を得意とする。負けたのなら「俺は男として負けた」と素直に表明するのが器であり、転向の作法というものであろう。

村の家・おじさんの話・歌のわかれ (講談社文芸文庫)
 

 

 僕は隣のタカナシさんのてっちゃんとは同じ学年で同じ幼稚園に通った仲なのでよく遊んだ。

 ある秋の日にてっちゃんと近くの飛行場跡地に生えたススキをとりにいった。幼稚園の年長さんのときだったと思う。てっちゃんは「今夜うちでお月見をしようよ。仏壇にススキを上げるんだ。おいしいお菓子もあるよ」と僕を誘った。僕は家に帰るなり父母に「てっちゃんからお月見に誘われたんだけどいまから行ってきてもいい?」と訊いた。母はなんだか困ったような表情をして口をつぐんだ。父親は「今日はやめておこうよ」といった。僕は理由がわからなかったので「明日ならいい?」と訊いた。父親は「明日もやめておこうよ」といった。両親に自分の言い分が通らない場合、祖父母に言いつけをすることが最善のソリューションであることを当時から知っていた僕は、そのまますぐに婆さんに告げ口をした。

 婆さんから話を聞いた爺さんはその足で、お勤めの設営準備をしていたタカナシさんの家に怒鳴り込んだそうだ。そうだというのは僕は翌日には足利の実家に「お呼ばれ」しておいしい料理を食べさせてもらったからである。大人の世界は子供の知らないところで実によくできている。

 てっちゃんに誘われたその晩、僕はおそらく月見のことは忘れて寝てしまったのだろう。そして次の日になればまた別のことで遊び、夜のお出かけのことで頭の中身は上書きされる。一連のことはずっと後になってから父親から聞いた。心優しき共産主義者は次のように証言する。

 「俺は、どんな主義主張にもその人なりの信念があると思っていた。だから俺はかえって弱腰になる。一線を越えたとき、あの人はその辺りの諸々を飲み込んだ上で戦える。その違いは大きいと思う」

 僕は街中の小学校に進み、地元の学校に進んだてっちゃんとはそのうち自然と疎遠になった。

雨/渡良瀬橋

雨/渡良瀬橋

 

 

 婆さんがアルツハイマーにかかってから、僕は東京の大学で授業を終えると時間があるときには新幹線で地元に戻り、駅前で爺さんと待ち合わせをして見舞いにいくことが習慣になった。

 病院は街中の川沿いを少し歩いた先にある。爺さんと駅前の花屋で折々の花を選び、婆さんの好きな大判焼きの味を日替わりにして病室に持参する。金木犀の香りの漂うころ、すでに婆さんの病気は進み、周りの人の顔と名前が揺らいでいるような状態だったが、誇り高かったはずの爺さん(73)は行きに帰りにしきりに「婆さんは俺のことはわかっているよな」と僕に確かめるようになった。

 それは認識ではなく信仰に足を踏み入れた問題であるように僕には思えた。

 父親は「わかっているはずないのに、あんなこというんだから男というのは悲しい生き物だ」などと口にした。彼は妻を亡くしたときにそれ以上の醜態をさらすことになる。その時点ではまだ我が身の行く先を知らない。

 そして病人が続いたわが家には代替わりをしたタカナシさんから選挙や何やらを口実に電話がしきりにかかってくるようになった。週末には畑をつぶした駐車場に20台30台の自家用車が停まり、お経の声があがる。

 あるとき思い余って「うるさい」「俺も人間革命は少し読んだが自分には合わない内容だと思った」「できれば公共の福祉ということばを噛んでほしい」とてっちゃんに面と向かって伝えた。若干弱腰になっているのは信念と革命家の血と幼いころの友情が複雑にブレンドされたためと思われる。

 それでも、何かを叩く音がしばらくのあいだ収まったところを見ると、少しは効果があったようだ。

 

 「わかっているよ」

 川面を眺めながらとぼとぼと、それでも婆さんに会えるうれしさに気持ちが高まっている様子の爺さんに僕は繰り返し伝えた。少しは励ますことができたかのかどうか、ほかにどうすればよかったのか、何かすべきことがあったのではないか。自分を守ってくれた人の、晩秋を歩く少し丸まった背中をときおり思い出す。

にんげんだもの 逢 (角川文庫)

にんげんだもの 逢 (角川文庫)

 

 

かくめい

かくめい