illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

児玉隆也のこと/上川でもゆういでもない件

 児玉隆也の話をしたい。
 ひところは気の利いた書店の「ノンフィクション」コーナーには児玉隆也の文庫本が静かに並んでいた。夭逝の作家でもあり冊数はわずかだが、「スポーツ」からノンフィクションに目を転じ、沢木耕太郎や後藤正治や佐野眞一にへどもどした感性には、児玉隆也という著者名は、いわば、向田邦子と並ぶ、一服の昭和の清涼剤であった。本田靖春『誘拐』ではいささか灰汁が強い。

誘拐 (ちくま文庫)

誘拐 (ちくま文庫)

 

 児玉清は知られた読書人で宮部みゆきを初めいくつかの書物で解説を記しているが本貫はアタック25の人である。児玉誉士夫ロッキードの人だ。小玉ゆういはかわいいけれどもちろんちがう。立花隆の「田中角栄研究」(1974/11)はすでに読んだ。そうだ、立花と同時期に田中金脈に迫った傑作があった。「淋しき越山会の女王」(1974/11)。この筆者こそ児玉隆也である。文章の美しさでいえば児玉が断然上だ。才人はそのころすでにおかされていた癌を押して金庫番に迫る。


アタック25 怒涛のアタックチャンス100連発 - YouTube

 知られた傑作はいくつかある。新しい人は「一銭五厘たちの横丁」と答えるだろう。「ガン病棟の九十九日」も感に堪えない。が、如何せん、辛い。

一銭五厘たちの横丁 (岩波現代文庫)

一銭五厘たちの横丁 (岩波現代文庫)

 

 ときに、東京のいかがわしくて魅惑的な街の1つは玉の井であり、もう1つは樋口一葉記念館からちょいと一角に入ったイスタンブールの銭湯街であろう。不惑ゆえ小職もはやそちらには気が進まぬ。もっとも、昭和史の1級資料「断腸亭日乗」にかぶれて玉の井のカフェにあこがれる感性は捨てるわけにはいかない不断者ではある。

 閑話休題
 児玉「一銭五厘たちの横丁」は、一葉記念館から吉原大門、日本堤に行き着く手前の竜泉町の一帯を本籍とし、よってその住所に赤紙一銭五厘とはこの葉書の値段とされる)が届いた若者たちとその家族を写真に収めた、カメラマン桑原甲子雄(1913-2007)のライカに残された写真を30年が経ってから手がかりとして町を歩き訪ねた児玉隆也(1937-75)、昭和50年の傑作である。息の長い文になったが勘弁してほしい。本来はここに「秋元キャパと並ぶ」という形容を挟むつもりであったが禁欲した。それくらいの傑作である。伝わらないと思うので蛇足を承知で添えれば、吉原大門に向けたはずの足が一葉に/頭(かうべ)を垂れる/秋のゑひかな。

ベトナム戦記 (朝日文庫)

ベトナム戦記 (朝日文庫)

 

  褒めた。褒めたので許してほしい。児玉隆也の現代史的意義はこれとは別の作品に(も)あるのである。

 甲乙つけがたし。書店にその作品が並んでいさえすれば、あるいは、岩波が妙な心持ちにならなければ、わざわざ記す必要はなかった。が、どうやら昭和50年からこのかた、どこかで時代が捩れた。振幅を許容しなくなったのかも知れない。岩波においてすら。況やをや。 

この三十年の日本人 (新潮文庫)

この三十年の日本人 (新潮文庫)

 

 下の箇条書きをみてほしい。新潮文庫「この三十年の日本人」(1983)所収作品のタイトルを掲載順に列挙したものだ。かつて岩波現代文庫にも同じ書名で(そして悪しき剪定をして)収められていた記憶があるのだが、いまこの瞬間に手元にないのでこれ以上の言及は控える。しかしこれらの作品の主要ないくつかを岩波現代文庫で見かけなくなったという事実は残る。消えたものの足あとから、われわれは1983年から2014年の間に何かの地殻変動が起きたことを知る。それは児玉が追いかけた1945年から75年の30年間にもきっと通じる何かである。

  • 「若き哲学徒」の死と二つの美談
  • 『同期の桜』成立考
  • 学徒出陣後三十年
  • 司王国―飢餓時代のメルヘン
  • 鐘の鳴る丘―二十五年めの戦災孤児
  • 遺族の村―靖国法案と遺族たち
  • 皇太子への憂鬱
  • チッソだけが、なぜ
  • 淋しき越山会の女王

 2作、1箇所ずつ、特に1つはとりわけまずそうなところを選んで引用する。

 皇太子は、「日本に一人しかいない人間」としての、セックスアピールに欠けている。「新憲法下の結婚の実践者」としての”栄光”と、律儀さと真面目さだけで国民を魅惑するには、四十X歳はまだ若すぎるのである。

児玉「皇太子への憂鬱」新潮社『この三十年の日本人』所収P.223

 彼らは、余目駅の”賊”をやりすごすと、奥羽西線に乗り継いで二つめの、狩川駅に降りた。駅からは北に鳥海山が見えた。村は羽黒の山裾と最上川の間に広がる田園の中にあった。「司王国」の本拠地、”帰烏倶楽土”(カリカワスグラード)である。

 私が”司王国”の名を知ったのは、『戦後生活文化史』(弘文堂・1966年刊)という本の一頁からだった。王国に関する記述はごく短かった。

前掲書「司王国」P.110

 誤解を恐れずに、ではなく、誤解を恐れて、いう。
 「皇太子への憂鬱」は、左翼視点ではない。ある種の「忠義の逆焔」(丸山真男)であろうと思う。児玉は三島由紀夫を仰ぎ、そして、認めらなかった。

 「司王国」は末尾の1行に、この記事でも触れたある名前を用意している。誰かはいわない。児玉の抑制の美学は黙して語らないが佐藤昭は天皇制である。その馬喰の倅のことを昭和天皇はお嫌いだったといわれる。

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

 

(追伸)これからは秋元と聞いたら康ではなく才加でもなくキャパ啓一を思うことだろう。『ベトナム戦記』と、開高健記念館の入り口をくぐってすぐのところに掲げられた開高大兄お出迎えの写真は必見である。 

昭和精神史 戦後篇 (文春文庫)

昭和精神史 戦後篇 (文春文庫)

 

 

東京下町1930

東京下町1930

 

 (追々伸)『この三十年の日本人』に最相葉月による書評がある。「司王国」について詳しい。


この三十年の日本人[著]児玉隆也(新潮社)、昭[著]佐藤あつ子(講談社) - 最相葉月(ノンフィクションライター) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト