illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

沢村悠子の恋

 すばらしいものを読んだ。虫明亜呂無(むしあけあろむ。本名。1923-1991)「風よりつらき」である。沢村悠子と聞いて映画「空の境界」(河北麻友子)を想起した方は縁がないので、残念ではあるがここでさようならである。

 さて、玉木正之が「私が日本で初めてスポーツライターと名乗った」と嘯いているらしい。それにはひとこと文句をいっておかねばと思って書きはじめた…のだが、やめた。玉木は虫明のおそらく現時点で最大の理解者であり紹介者である。玉木は1975年ごろに虫明作品に初めて出会ったというから40年の功績である。知らない人のために玉木の力を借りる。

 むしあけ あろむ【虫明亜呂無】この国で、ほとんど唯一のスポーツ・ライターといえる人物。彼の著した、『スポーツへの誘惑』『スポーツ人間学』『シャガールの馬』『ロマンチック街道』などは、スポーツに携わるマスコミ人の必読本である。

玉木正之『新潮プロ野球大事典』新潮文庫P.528/ナカグロは原文のまま)

 2014年9月の時点で玉木は虫明に匹敵する作品を書けていない。ということは、おそらく今後も書けないだろう。彼の知性は(虫明のような)浪漫よりも批評に適している。たとえば「幻の東尾事件」。東尾修には黒い霧事件以来、八百長だとか手抜きだとかの噂がときおりくすぶった。加えて、覚えている人もいるだろうが賭け麻雀に手を出していたというので西武球団とマスコミと世間から叩かれ、謹慎処分にも付されたことがある。後に石田純一の義理の父親になる「トンビ」を擁護する玉木の論点はほとんど次の1点に尽きる。

 たとえ東尾が巷間囁かれているような野球賭博八百長に荷担していようが、相当高度な技術を駆使して行われるのであろうそのような行為は、われわれ素人のプロ野球ファンがプレーを観戦するうえでは、まったく支障のないものと言える。それよりも、首位打者を取るために試合を休んだり、ライバルの選手にホームランを打たせないために味方投手が四球攻めにする、といった明らかな八百長が、なんの咎めもなく放置されているほうが、よほど問題だ。

玉木正之東尾修 危険球と外角低めを使わける球界の“ジキル&ハイド氏”」文春文庫『プロ野球乱闘史 暴れん坊列伝』P.28)


87日本シリーズ 西武ー巨人 東尾vs原 - YouTube

 いま手元にはないが「そのような高度な技術がわれわれファンに気付かれることなく駆使されているとしたら…すばらしい」「麻雀とプロの投手の技術には何の関係もない。投手の価値は投球がすべてである。コントロールがよく、同時に死球も多いという理解しがたい二面性が東尾をプロたらしめているともいえる(原辰徳にはない)」という趣旨の主張も読んだ覚えがある。玉木さん(敬意を表して「さん」を付ける)の才能はこのようなところにあって、それは虫明さんのものとは別のものだ。それがどうして「(虫明は)この国で、ほとんど唯一のスポーツ・ライターといえる人物」という賛辞を寄せておきながら「私(玉木)が日本で初めてスポーツライターと名乗った」につながるのか、その他もろもろについて述べようと思っていたのであるが、やめた。

 「風よりつらき」に打たれたからである。すぐれた浪漫を前にして、知性はむなしい。

 

 沢村悠子。栄治の妻、と書けばピンとくる方もいらっしゃるのではないか。「沢村賞」に名を残す沢村栄治その人と夫人である。悠子は「旅芸人」と揶揄され、見下されていたころの職業野球に、栄治に、男の漂泊を感じとり、そして結ばれた。

 女はなぜ流れてゆく男に魅力を覚えるのであろうか。女は行きずりの男にも、ふと、心をときめかす。その余韻は、思いがけぬときに甦ってくる。わたしが職業野球に抱いた魅力も、それにほかならなかった。

虫明亜呂無「風よりつらき」ちくま文庫『肉体への憎しみ』玉木正之編P.33)

 「よし、今度は、おだいが流してやる」
 おだいというのは、栄治が自分のことを指していう時の言葉だった。宇治山田の言葉らしかった。
 栄治はわたしの背後にまわった。
 わたしは浴場のタイルの上に片膝をついて、心持ち、彼の胸によりかかるように、背をそらした。彼の流す湯がわたしの肩から胸にかけて落ちていった。わたしは、彼の肩に頭をあずけた。
 浴場のせいか、彼の男はにおわなかった。

(同P.15-16)

 入営の数日前の描写である。猥褻な文学というのはこういうのをいう。

 いかん。そうじゃない。話を戻す。

 沢村は都合3度、戦争に呼ばれている。沢村悠子は夫を送り出したあと魂を抜かれたような日をすごす。彼女の慰めになったのは徴用とそれによる毎日の作業の繰り返しであった。

 ながい戦争であった。
 わたしが空白に耐えられたのは、やがて、わたしにも徴用の声がかかったからである。わたしは池田の小さな軍需工場で、粗末な夏ものらしい、草色の軍服縫製の仕事を与えられた。わたしは終日、ミシンを踏んだ。壁にひびわれの入った、埃っぽい工場の中は、原料の仕入れや製品の仕送りで終日、喧噪をきわめていた。わたしは物を考えるひまがなかった。それが、わたしを救った。

(同P.21)

 一人称「わたし」はもちろん沢村悠子である。なぜこんなことを確認するのかといえば書いているのは虫明亜呂無だからである。発表が1979年秋だから虫明は55歳を過ぎている。どう読んでも若い女のひとりがたりとしか読めない。虫明になぜそんなことができたのか。

 それは彼が陰陽と見紛うスポーツの、男と女を動かす原理のようなものをはっきりと捉えていたからだろう。

 野球も不安定なら、愛もまた不確定である。それらはともに十全でもなければ、確固としたものでもない。だからこそ、野球も、愛も劇的なシチュエーションを必要とするのであろう。
 「野球は勝とうと思ってもなかなか勝てず、試合の経過の中には勝つ意志と反して、あまりにも苛酷な落し穴が設けられすぎています。それでも、勝とうとして全力をつくしている。はじめから勝つことや、出世したり、権威を手に収めるとわかっている男たちに、女がどうして魅力を感じるでしょうか」
 僕はそう語ってくれた姪のかたの言葉の背後に、世の女性に共通した愛へのやみがたい願望と憧憬、そして、愛を証しだてる肉体への女性特有の呪詛と怨嗟が、渾然とこめられているのを感じた。

虫明亜呂無「肉体への憎しみ」前掲書P.225)

 

 ここで話はすこし外れるが、「姪のかた」というのは、沢村悠子の姪のことだ。「風よりつらき」が当時(1979年11月)の『オール讀物』に掲載され、店頭にならんだ3時間後に虫明のところに「未知の女性のかた」から電話がかかってきたそうである。彼女は叔母にあたる悠子の後半生を虫明に詳しく伝えた。その悠子の面影を宿す「姪のかた」もまた、職業野球選手の夫人であると身を明かしたという。

 戦後の巨人軍V9初期に主戦投手として活躍した中村稔(三重県立宇治山田商業高等学校出身)は、「自分は『沢村とは親戚関係である』」ことを明かしている。

ウィキペディア「中村稔」の項)

 わからない。だが、あるいは、沢村の15歳年下にあたる同郷の元ジャイアンツ主戦投手、中村稔(1938-)のことではないかと僕は想像している。ご存じの方はぜひ教えてほしい。

 今日、栄治に赤紙がきた。十月一日、津の歩兵連隊に入隊せよという令状だった。三度目の応召である。
 昭和十九年九月も、あと二日で終わろうとしていた。

虫明亜呂無「風よりつらき」前掲書P.19)

 沢村栄治が最後に戦争に呼ばれてから今月でちょうど70年になる。

 悠子夫人が湯を流したとき、「栄治の肩は、これが野球選手のそれかと疑わせるほど薄くなっていた」といわれる。

 悠子は戦後に再婚した。実は栄治の出征後に子を身ごもっていることが判明したのだが、その人の消息は「風よりつらき」には記されていない。

 

(追伸)虫明のような作品を読めば、沢村が160キロを出していたかどうかなど、二の次であることに感じられてくるだろう。ついでに毒を吐いておけば、プロ野球選手に群がる女子アナやタレントに劣情を覚えないのは、むしろまともな男の証拠であることがおわかりいただけることと思う。こういうことを書くからおれはいかんのだ。

沢村栄治

沢村栄治とは編集

 
肉体への憎しみ (ちくま文庫)

肉体への憎しみ (ちくま文庫)