illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ある老遊撃手の愛にまつわる誤解/30年目の広岡達朗試論

 広岡(達朗)さんが同じことをいっている。

 そう思いながら日刊ゲンダイの記事を読んでいた。ちなみにいえば、ゲンダイをまじめに読んだのは「止まり木ブルース」と「やる気まんまん」以来である(それらが何であるかについては、検索してわかったとしてもどうか黙っていてほしい)。

 閑話休題

 年を召した人が昔はよかった式の、こうでなければだめ式の、あるいは両者がないまぜになった懐古と自慢話をするのはよくあることだ。だれとはいわないが、国鉄で価値ある350勝を挙げたのにジャイアンツOBをうれしそうに名乗る人とか、86年のオールスターでワンちゃんに騙されて2塁まで激走して落語家顔負けのパフォーマンスを見せてくれた人とか、喝の人とか(センロックの人にもたまに似たことを感じることがある)。

 広岡さんはかれらとは違う。たぶん違うと思う。広岡さん自身も違うと思い、しかし、同時にかれはその伝わらなさをわかっていて発言しているのではないかと僕は思う。

 「ジャイアンツの野球はいい野球じゃないですよ。たしかに藤田の投手起用は理にかなっていた。それは評価しなくちゃならない。しかし、ただそれだけですよ。けっして強くはなかった。しかしテレビの画面には、相手チームが勝手に転んでジャイアンツが逆転するというシーンが出てしまう。そういうときに、ジャイアンツは本当は強くないですよといくらいったってどうしようもないでしょう。しゃべりようがないですよ」

 海老沢泰久広岡達朗の七九〇日」(文春文庫『みんなジャイアンツを愛していた』P.121)

  スワローズを去り、解説者をしていた1981年の初夏の発言だ。当時のジャイアンツは長島解任の後をうけて藤田元司が監督をしていた。ジャイアンツは6月初旬から早くも独走態勢に入る。だが心あるファンはジャイアンツが決していい野球をしているのではないことを感じとっていた。

  海老沢泰久の筆をかりて次のようにもいっている。

 ……藤田は、打撃面は王にまかせ、牧野には作戦面をまかせて、自分は投手陣をみるのだといっていた。それでは監督はいったい誰なのだと広岡は思った。

 同P.118

 さて、あらためて先日の日刊ゲンダイに載った広岡さんの発言を見てほしい(表記は僕の判断で海老沢さん風に書きあらためた)。

  「今年の巨人は、優勝したらいけませんよ。問題は原監督の采配。今年にかぎってはやりたいことが全然わからない。まともな野球をやっていません。コーチもよくない。いまの巨人で打撃を教えているのは原ひとりだけでしょう。コーチは何をやっているのかと。選手にものがいえないのでしょう」

  再び昭和55年ごろの発言。

 「ジャイアンツにはいいコーチがいない。千葉さんでも別所さんでも青田さんでもいい。ジャイアンツを心から愛して、ジャイアンツのためだけを思ってはたらくような人たちを残しておくべきだった」

  藤田を原に、投手起用を打撃に、千葉(茂)さん、別所(毅彦)さん、青田(昇)さんの部分を……いまのジャイアンツに広岡さんの眼鏡にかなうコーチが果たして何人いるだろうか。

 広岡さんは単純に同じことをいっているのではないと僕は思う。現在にも通じることを昔からいっていた。そう理解したほうが、きっと、近い。30年後にもかれは同じことをいうだろう。もちろん、そんなかれの姿勢を頑なのひとことで片付けてしまう人のほうが多いことはわかっているつもりだ。30年前の発言を覚えていて跡付けるのは難しく、わざわざそんなことをする人はめったにいないからだ。

 でも、広岡さんにとって、だめなものはだめなのである。それくらいの息の長い目がなければ、ジャイアンツを思いながらスワローズやライオンズを日本一に導くことはできない。こと広岡さんに関していえば、実績と理念は老害と切って捨てるには早すぎる。それだけのものを残している人だ。

 そして同時に、ただ勝つだけではなく勝ち方にも求めるものがある。広岡さんはそのことを厳しく自分に課してきた。そこに広岡さんの難しさがある。

*

 では、その広岡さんが理想とするジャイアンツ、あるいはその勝ち方とはどういう姿をしているのだろうか。じつはこれが慎重を要するテーマで、ジャイアンツへの理想を胸にしまいこんでライオンズに迎え入れられたかれのその後のチーム運営をみてほしいとしかいいようがないのだが、ひとつだけ、ヒントになる発言が残されている。2014年現在にも十分に通じる(タイガースファンの僕としては胸を衝かれる)発言だと思う。

  「ジャイアンツというのはどこが向ってきてもビクともしないような強いチームじゃなくちゃならない。何だか分らないが、なんとなしに勝ってしまったというような野球をしていたのではどうしようもないんです。ジャイアンツがリードして、はじめて全体のレベルが保たれているわけですから。だからいまのままじゃ駄目なんです。どこか対抗するところが出てこなくちゃならない」

 同P.123

  広岡さんというのは存外、口べたな人で、結論や理念がぽんと出てきてしまうところがある。その投げかけられたものから必死になって自分で何かをつかみとるのがプロだという信念がかれの根底にはあるからだ。

 正しい。そのようなやり方はある段階のチームには必要なことだと掛け値なしに僕は思う。

 同時に、広岡さんのある種の早見え――とでもいうのかな――が、現役時代、ライオンズ時代、千葉ロッテ時代に衝突を招いたことを歴史として知っている僕にとって、複雑な気持ちにとらわれるのもまた確かなことだ。

 誤解をおそれずに少しだけ話を広げていえば、このタイプの人は、愛する対象に、結果として負を引いてしまうのではないかと思う。

 海老沢さんもそのことを感じとっていたふしがある。

  広岡は、これで自分のユニフォーム生活の最後の運命が決ったと思った。こうなるまで彼の頭はつねにジャイアンツのことでいっぱいだったが、それは最後まで理解されなかった。

 同P.125

  1981年10月29日、広岡さんは西武ライオンズと契約を結ぶ。そして約束した通りにチームの礎を固め、田淵を鍛え直し、ライオンズは森祇晶さんへと続く盤石の黄金時代の幕を開けることになる。広岡さんは85年にタイガースとの日本シリーズに敗れたあとに不可解ともいえる辞任をするのだが(健康上の理由という説がいまだに半ば信じられない)、この稿を書いていて僕ははたと思い当たったことがある。

 広岡さんは80年代後半に、やはりジャイアンツの監督を務めてみたかったのではあるまいか。(ライオンズには申し訳ないけれど)自分の場所はここではない、年齢面でも(85年当時53歳)キャリアの面でも、チャンスがかぎられていることはわかっている、でもひょっとして、万に一つ――そんな気持ちが作用したのではないか。

 *

 「ジャイアンツ愛」というフレーズをメディアで目にすることがある。そんなとき、原や若手の選手たちが口にするのとは少し――いや、かなり――ちがった深みで受け止めているOBがいることを思い返してくれるならば、時代錯誤の1ファンとして、とてもうれしい。

 「私も82歳。自分がいなくなった後の日本、日本の野球界はどうなっていくのか。心配で仕方ありません」

日刊ゲンダイ前掲記事 (´Д⊂グスン