金田(正泰。引用者注)には一つ、思い出がある。
戦後、間もないころである。タイガースは札幌に試合をしに行った。金田も、もちろんそのナインに入っている。
その札幌で金田はカイザー(田中。引用者注)に会った。カイザーは占領軍の仕事をしているといった。食料の豊富な占領軍から、カイザーはチームの連中にアイスクリームを手みやげに持ってきた。かなりの量だった。そのアイスクリームの冷たい甘さがひどく印象に残っているから、季節は夏だったのだろうと、金田はいう。
山際淳司「異邦人たちの天覧試合」(角川文庫『逃げろ、ボクサー』P.141)
昭和34年6月25日。この2から6まで1つずつきれいにそろった日付を目にしてそれが何のことかピンとくるのはおっさんである。日付を見ただけでその「最後の1球」について何かを語れてしまうとしたらあなたはひょっとして徳光さんである。
【天覧試合】 長嶋茂雄 【9回裏 サヨナラ本塁打】 - YouTube
それではプレイボール直後の1球はどうだったのだろうか。
その話がもしできるとしたらだれなのか。もし尋ねるとすればだれのところに足を運べばいいのか。
山際さんは、普通の作家なら見逃してしまうような何気ない話を何気なく書くのがじつにうまい。本書にはそういう話がたくさん詰まっていて、山際さんのその特徴が非常によく出ている。
海老沢泰久による「解説」(角川文庫『ウィニング・ボールを君に』P.321)
海老沢さんがここでいう本書とはこれから紹介するストーリーとは別の1冊だが、僕がいいたいことは変わらない。山際さんは昭和34年6月25日のゲームで最初に投じられた1球の行方が気になるのだと、次のように語りだす。
その日のゲームの第1球目についておぼえている人は少ない。
試合開始は午後7時ちょうどである。後楽園球場のマウンドには藤田元司がいた。最初の1球をおぼえていてしかるべきなのは、この藤田投手だろう。が、彼も「そこまではおぼえていない」という。
最後の1球については、誰もが知っている。あまりにも有名すぎる1球に、それはなってしまった。時計の針は、午後9時10分をさしていた。昭和34年6月25日である。そのときからぼちぼち四半世紀が過ぎようとしているのに、その最後の1球はいまだに語りつがれている。
山際淳司「異邦人たちの天覧試合」(角川文庫『逃げろ、ボクサー』P.106)
今から四半世紀ほど前の、6月25日の後楽園球場で行われた「天覧試合」という名を持つ巨人―阪神戦は、長島vs.村山の対決というドラマトゥルギーの中で語られることになってしまう。それは、最後の1球、という状況が持つ魔性のせいかもしれない。
だがしかし――と思うのだ。
最初の1球はどうだったのだろう、と。
(中略)
日常的だけれど、しかし、しばらくそこにこだわってみたい気がする。その、何でもない1球のことをおぼえている人もいるのだから。「最後の1球」という、あまりにきらびやかなドラマの、その強烈な光によってさえぎられ、見えなくなってしまいそうないくつかのことがらを、彼らは語ることができる。
(同P.109)
最初の1球それ自体にドラマはない。それ自体がドラマを形作ることはできない。1球に到達するまでがドラマであり、それを目に見える形にするのが取材と文章の役割だからだ。島秀之助(主審)、水原円裕(茂)、川上哲治、カイザー田中、佐伯文雄(ジャイアンツ球団元常務)、鈴木惣太郎、若林忠志、ウォーリー与那嶺、王貞治、金田正泰…山際さんはじつに多くの人に取材をし、引用し、彼らの声に耳を傾ける。
と、ここまでのところでお気づきだろうか。
この物語には変わった名前の人が出てくる。カイザー、ウォーリー、王、そしてデリケートなところだが金田。彼らはみな日本国籍をもたないか、日本国籍とはもうひとつ別の国籍をもつ男たちだ。じつは若林忠志もヘンリー若林という日系2世である。エンディ宮本の名前もでてくる。
彼ら「異邦人たち」の目に天覧試合はどう映ったのか。胸をうつ証言ばかりだが、中でもたどたどしい日本語で語るカイザー田中(当時のタイガース監督)のことばを引いてみたい。
「勝チタカッタンデスヨ。ホントニ。ほのるるノ、ボクガ育ッタ家ニハ、天皇陛下ノ写真ガ飾ッテアリマシタ。父ハ、ソノ人が神様ダトイイマシタ。ボクハ、ソレヲ信ジテイタンデスヨ。君ガ代ガ聞コエテクルト、ソレダケデ、体ガピーントシテシマウンデスヨ。ダカラコソ、勝チタカッタンデスヨ……」
(同P.149)
後にドラゴンズの監督をつとめるウォーリーもカイザーと近いところにいる。
後年、天皇陛下の訪米が実現する。昭和50年のことだ。与那嶺は中日ドラゴンズの監督をしていた。その日の朝、与那嶺は教会へ行った。そして祈ったという。
「訪米中、天皇陛下がご無事であるように、とですね。キリスト教の教会で、天皇陛下のことを祈る……。それがぼくには違和感はありません。当然だと思った」
与那嶺はそういった。
昭和34年6月25日、この日の与那嶺も教会に寄ってからグラウンドへやってきた。
「いいゲームをしたかった。陛下の前ですから」
ハワイ生まれの日系2世には、戦後の日本におけるような戦前的価値観の崩壊はない。
(同P.125-126)
日本人ではないからこそ日本的イデオロギーになじもうとして過剰に吸収してしまう――たとえば日本刀をもって武士のように練習に励む王貞治のように――反応を社会学で何とかいった気がするのだが思い出せない。
山際さんの描くカイザー、ウォーリー、金田(正泰)は、そのような解釈とは違ったところにいるように僕には思える。戦争「に負けた」のか、「が終わった」のかでいえば、彼ら、特にカイザーにとって、天覧試合に陛下を迎えることで、2つの国のあいだで引き裂かれた悲しい戦争は、ようやく終わった、ことになるのだろう。ほかにも引用したいエピソードはあるのだが、微妙なニュアンスを含めて、ぜひ手にとって味わってほしいと思う。
このゲーム、ロイヤルボックスの解説には中沢不二雄パ・リーグ会長があたった。陛下に対し、中沢はゲームの開始直後に《野球は3つのアウトを数えると攻守をかえるスポーツだ》という趣旨の説明した。陛下は頷いた。
9回裏、先頭打者の長島が村山実の5球目をレフトスタンドに運ぶと、陛下は次のように中沢に尋ねたといわれる。時計の針は9時10分か11分。ちなみに陛下はこの日9時15分までの観戦でお帰りになる予定だった。
「まだ3つ、アウトになっていないはずだが…」
9回裏、突然の幕切れにふさわしい台詞といえるだろう。いかにもありえていい台詞である。それがゆえに、伝説化している。
ゲームが終わると、彼は静かに立ちあがり、ホームベースの両側に整列した選手たちに見送られ、いつものしぐさで手をふるとロイヤル・ボックスを出ていった。
(同P.150)
印象的な幕切れ、着眼、入念なインタビュー、歴史的な視野の広がり…どれをとっても山際ノンフィクションの傑作中の傑作だと思う。本当は第1球を投げた藤田元司のあまり知られていないエピソード(天覧試合とは直接には関係しないものだが)をNumberのバックナンバーで見つけたのでその話をしようと思って書き始めたのだが、山際さんの文体を引用するのが楽しくてひといきにここまできてしまった。
(追伸)引用の算用数字は原文ではすべて漢数字である。カイザーの語りは山際さんの表現をそのまま形を変えずに引用した。