illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

くーちゃん(痛風で会社を休んでいます)

痛風は痛いです。28で発症して15年以上の付き合いになります。長野の山に登り(よせばいいのに)新島々という山の麓、梓川沿いの謎地名の駅で足の痛みがどうにも耐えられなくなり、地元(といっても遠かった)病院で「骨折でしょうか?」と恐る恐る尋ねたところ、先生笑いながら「ここでしょう?」「ここは?」「昨夜ビールは?」。

*

必ず、旅を終えて帰宅したら近くの大きな病院、整形外科か内科になるかは病院によってわからないけれど、「痛風」「8.6でした」と伝えるようにといわれ、這々の体で当時暮らしていた練馬にたどり着いたのでした。

*

以来、2年に1回ペースで大きな発作を賜っております。前回は船橋の大きな病院に救急車で搬送されました。申し訳ございません。今回、すなわち昨晩は、耐えた。耐えることができた。冷蔵庫にかろうじて1箱中身2粒残されていたイブプロフェンを祈りながら噛み、飲み下し、くーちゃんが遠巻きに不思議そうな顔をして見守ってくれている。ときどきこちらに歩んできてくれるので、撫で、ねこ様を通じて何か大きなものに謝り、しかしかつてとは違って、思わず笑顔がこぼれてしまう。

*

右足の踝(くるぶし)と親指の付け根は、毛布1枚がふわっと乗っても激痛が走る。くーちゃんが一緒に寝たがっているので、くーちゃんを毛布の内側、お腹の隣に寄せ、右足の角度を工夫。効き始めたイブプロフェンにすがるようにして、意識を落とした。午前1時から3時半までの、長い長い2時間半。

*

5時半に起き、6時半に会社にメールを送って、病院には行くことができない。足が痛むから。水をたっぷり飲んで、腹は減らず、くーちゃんは僕が会社に行かないと悟ると、いつもの朝の、出かける前の甘えのポーズからひらりと身を起こし、ロフトへと駆け上がっていったのでした。

くーちゃん

くーちゃんには「幻の2週間」という

僕が名付けた、2015年5月7日過ぎから5月20日前までを表す期間がある

 

くーちゃんが生まれたのが(推定)5月7日

保護されたのが5月20日前だ

母猫について男の子の兄弟と水飲み場に現れたところを保護された

 

ペットシッターさんの家で僕がくーちゃんと出会ったのが6月

うちに来てくれたのが6月27日

小さいさんが

よく2週間も都下の外界で生き延びてくれたものと思う

 

いまでも

悪天候になると

くーちゃんに屋根と温かい部屋を提供できていることに胸を撫で下ろし

下僕は泣く

 

すべてのねこに温かい家とごはんがあればいい

そう願いはするものの

下僕はくーちゃんで満たされた部屋の暖かさに世界平和への祈念を忘れ

身体を休め

 

必ずしもいいことではないとは十分承知

されど

その断念以外にいまはなすすべがなく

部屋のドアを開けるとほんとうに「ねこ王国」は何ともいえず暖かく

くーちゃんは下僕が気にするような2週間を

とうに忘れ

 

下僕は下僕で

なぜくーちゃんのような優しい小さいさんが自分のところに来てくれたのかと

答えのない問いに

悶絶する春の宵

 

英検準2級以上のちょっとした練習技法

英検準2級、2級、準1級の、家庭教師やら集合授業やら(受験生、社会人相手)を、長いブランクの後に持ち始めて、かれこれ1年半になります。素の実力値で、TOEIC950を下回るくらい。28年前の大学受験の蓄積をとにかく切らさないようにしがみついてきました。採ったのは「使う/教える場に立ち続ける」こと。教えると教える側ができるようになるというのはいい古された謂いですが、もうちょっと具体的に。

過去問を用意する

http://www.eiken.or.jp/eiken/exam/grade_2/solutions.html

英検2級

http://www.eiken.or.jp/eiken/exam/grade_p2/solutions.html

英検準2級

この、「リスニング原稿」をダウンロードしてください。

http://www.eiken.or.jp/eiken/exam/grade_p2/pdf/201803/2018-3-1ji-p2kyu-script.pdf

まずは準2級

まずは準2級です。2級はたぶん一般につらいので。繰り返しますが使うのは「リスニング原稿」です。

2018年第3回のリスニング25番は次のような問題です。

People in Thailand eat a spicy meat dish called nam tok moo. It is made by mixing grilled pork with lime juice, fresh sause,and lots of herbs and spices. Since nam tok moo has many herbs in it, people think the dish is healthy. It is usually eaten with rice and vegetables.

Question: What is one thing we learn about nam took moo?

こんな感じです。これはリスニングの中でも毎回出されるタイプ。特定ワード(nam tok moo、他にはたとえばシベリアの森林とか、モロッコに生息する珍しいヤギとか…)に関する短い説明文で、内容が一致している選択肢を4つの中から選ばせます。準2級リスニングは3部構成で、これは第3部から。内容や問われる角度は少しずつ異なりますが、同じような分量の短くまとまったテキストが発話され、会話の続きや、一致が問われる、例年お決まりのパターンです。

ただ、今日は、それがいいたいわけではなくて、これを、リスニングは30問あるので、授業をもつと、これを毎週約45分かけて音読し、面白おかしく解説し、知識事項を補います。英検準2級と2級でやる。1年半で120コマも消化したでしょうか。1,000時間弱ですね。

読めるようになった

すると、読めるようになりました(笑)。

いえ、前からそりゃ読めてたさ。ちびまる子ちゃん風に。でも、ぐっと何かしら薄皮まんじゅうが剥けた感じ、2つの気づきがここのところ押し寄せてきている。

  • 英語のまま訳さなくても頭に入る。
  • ビジネスに使えるフレーズが意識しなくてもこれだとわかり、頭に蓄積されていく。... is my favorite. とか。つまらない例ですけれども。
  • かつて、中学高校時代に、現代国語のテキストを音読していたときの感覚に近い(!)

まとめ

英検準2級、あるいは2級のリスニングテストの原稿を、毎週1回か2回、1時間くらいかけて音読し、継続すると、大学受験で基礎体力をつけた人なら、1年もすると、「英語のまま頭に入る」かなりの下地ができる、かもしれない。

ちなみに、日夜ビジネスで使う英会話、英文メールというところでは、英検2級のレベルまではいらないかな。準2級くらいの素直さ、平易さで、報告書なりメールなりを作成し、電話や会議で発言できれば、まず困ることはないでしょう。実際、我が身を振り返ってみても、ない/なかったかな。2級は、やっぱりちょっとAs a second language話者には、むずかしいよね。準1級はましてなおさら。準2級から2級の間くらいを切らさず継続するのがおすすめ。

A sudden visit of early spring

実はここ数日、id:watto さんには何か一筆啓上しなくてはという思いがあった。おそらく彼はそのことに触れまいと思っていたらやはり触れなかった。

www.watto.nagoya

滋賀県立図書館の隣に、(旧)滋賀県医大が建っている。いまは滋賀医科大学という。

ホーム | 滋賀医科大学

滋賀県大津市瀬田月輪町。よよん君が入院していた。彼は由緒正しき不良の入院患者だったから、あるときは敷地内の公衆電話から、またあるときは電波のいいベンチから、はたまた、隣の図書館から、体調と相談をしつつ、当時(2002年)の2ちゃんねるにつなごうとしていた。それを黙認していたのが主治医の井上先生だ。滋賀県医大ではハンドボールの名手で鳴らした。

医者ってさ・・・

井上先生は、このスレッドには出てこない。瀬田月輪町に通い、ご本人にお尋ねしたところ、否定も肯定もしなかったけれど(守秘義務があるから当然だ)、間違いなく目を通していらっしゃった。井上先生は、よよん君にマルクを施す際に肺に穴を開けるという不始末をおかして、よよん君にブログで取り上げられている。彼はしかし、そのことを2ちゃんねるで取り上げられることをおそれたのではなかった。

「彼は、そんなことをする子ではないでしょう。一目でわかりましたよ(笑)」

と、井上先生はいった。

第5章:主治医 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

では、なぜ、ときおり2ちゃんねるに目を光らせたのか。

それは、どんな些細な情報でも、自分の患者のことは見ておきたいと思ったから。そして、もうひとり、「血液グループ」を名乗る、謎の血液内科医のことが気がかりだったからだ。「血液グループ」なる人物は、2ちゃんねるでよよん君と知り合うなり、検索エンジンを駆使して入院先の病院と主治医を探りあて、深夜、入院先の病棟にLAN回線の早期敷設を求めて電話をかけてきた、そんなエキセントリックな人物だ。

「すばらしい先生です」

と、井上先生は「血液グループ」なる人物評を、僕にしてくれた。僕もそう思っていた。僕は取材ノートとインターネットを駆使して連絡先を探りあて、メールを書いた。

*

一箇所だけ、自著から、引用させてほしい。

ぼくが東京に戻り、待ち合わせの喫茶店にきてくれた血液内科医に披露したのは、女優と野球選手にまつわるひとつのエピソードである。

 ――ノーマ・ジーンという多感で恋多き女性の二番目の配偶者になったある野球選手は、不幸にも彼女とわかれることになったそのあとも、一途な愛情を失わなかった。かつての妻が別の男性と結婚し精神の安定をうしなったときには献身的な支えになった。

 その死にさいしては葬儀をとりしきり、それから30年の長きにわたって墓前には定期的にアメリカン・ビューティ、真紅の薔薇がささげられることになった。野球選手はスターではあったけれど自分の行いを誇らない人柄だったので、ファンから広く愛される存在だった。もちろん薔薇のことは自分ではけっして語らず、触れようともせず、新聞記者が水を向けたときには、ただかつての妻のことを称え、静かにほほえむばかりであったという。

 女優はいわずと知れたマリリン・モンロー。野球選手は名門ヤンキースの黄金時代を支えたジョー・ディマジオである――

「いい話だと思いませんか」

 集めてきた話のあらましに続いてこの話をした。そして、ぼくとしてはさりげないふりを装って探りを入れてみた。

「これによく似た話を、さいきん、西のほうのどこかで聞いた気がするんです」

第8章:くまとねこの酒場 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

何人かの、お誘いした方が、僕と、よよん君の墓参りに同行してくださった。id:watto さん、id:aox さん、id:mikimiyamiki さん…そして、いつかはお墓参りにとおっしゃってくださる、id:yutoma233 さん。

けれど、今日のことは全くの不覚だった。

*

僕の書いた稚拙な物語は、関係者がそれぞれ、自分の犯したミスを故人、すなわちよよん君に申し伝える形式をとっている。とらせた。とっていただいた。高さ数10cmの取材メモから、そのように、選りすぐって、構成した。書いた当人である僕にもよくわからないのだが、この話は、なぜか、その方向を是として進んでいる。お母様はよよん君懐妊中の不用意なひとことをいまだに思い返しては悔いていらっしゃるし、井上先生はマルクの不手際を突かれるとおどおどした笑顔を見せる。友人も、お兄様も、お姉様も。

*

僕はこの物語を着想したとき、漠然と、この話は病-生の二項対立を相対化するものだという予感があった。

 木枯らしの吹く秋の日のように、ではなく、春の木漏れ日のように、人の生きる意味に思いをめぐらせることはできないだろうか。病める人もそうでない人も、互いに手を伸ばし、いまここで生きていることを確かめあえるような、何かうまい方法はないだろうか。

 いまここで病を宿している誰かに対して、「励まし」というオブラートで包みながらその実は「がんばる」ことを意識的にも無意識のうちにも強いてしまうのではなく。

「あんなにかわいそうな人でもがんばっているのだから、健康な自分はなおさら」と、どこかボタンをかけ違えた自分への動機付けをするのでもない、何か別のやり方で。

 きっと、あるのだとは思う。けれど、そんな「何か」をたまたま見つけたとして、その手応えをずっと手放さないでいるとなると、これがなかなか難しい。

 第1章:ふしぎな踊り - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

それはひとえに、当時(2003年)、僕の頭が、祖父母と母の病と介護と、それらからくる僕の鬱と、生への渇望と兆しに支配されていたからだ。と同時に、おそらくこの物語はそれでは完結しない、生それ自体を更新する、よよん君の明るさが基底にあるのだということもわかっていた。彼は次のように記している。

 この「逃病日記」は昨年6月に発症してしまった「急性リンパ系白血病」を治療するにあたっての、入院から退院までの出来事を読み物にまとめた物です。入院初期はどうなることかと心配もしましたが、なんとか無事に退院することができました。

 私は運良くトントン拍子で治療も進み、骨髄移植の為のドナーさんもみつかったおかげで、約1年で退院となりました。が、この病気(特に私がかかったタイプ)は骨髄移植ができなければ完治に至るのが難しいらしく、退院してもまた最初の入院時の状態に戻ってしまう事が多いそうです。実際、私と同じ頃に入院していた方はなかなかドナーがみつからず、退院中に再発してしまい病院に戻ってきてしまいました。

 私はドナーがいてくれた為かなり精神的に楽でしたし、完治して元の生活に戻ってやるという希望も持てました。しかしドナーがみつからず、ましてや再発までしてしまった彼の心境は私にはわかりません。それでも笑顔を絶やさない姿勢は尊敬に値するものと思います。

 彼だけでなく他にも大勢のドナーさんを待ち望んでいるのが現状らしいです。もしドナーになっても構わない、患者の希望になってあげたい、などと思ってくれた方、人それぞれの考えもあることです。それでも「やっていいよ」と考えてくれた方、ドナー登録していただけると幸いです。

 お世話になった医師、看護婦の方々、家族、そして見舞いに来てくれた友人達には心から感謝しています。どうもありがとう!

 …なお…逃病日記自体はこんなまじめにかいていませんので…読んだ後に怒りのメールを送るのはやめてね…。

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これが記されたのは、おそらく2001年晩秋から冬にかけて。よよん君が2ちゃんねるにやってくる数ヶ月前のことだ。彼は白血病が再発し、入院し、そして、2ちゃんねるにやってくる。確かPHSの64Kの細い回線だったはずだ。「医者ってさ」というタイトルで、研修医に対する愚痴を記してはみたものの、彼の愚痴はほとんど続かない。それは彼、よよん君が、他人を腐すような生き方や、ものごとの感じ方とはまったく別のところで育ち、それまで暮らしていたからだ。重篤な病気にかかっても、そのことはいささかも左右されない。
*

id:watto さんが滋賀県立図書館を訪ねた際、隣接する病院を訪ね損なったことを、いまごろ、よよん君は(笑いながら)天国のブログに書いていることと思う。ちなみに、僕はよよん君に会ったことがなく、その声を聞いたことがない。「血液グループ」を名乗る人は、ネットで会話を交わしたものの、「会いたい」というメッセージに応えて、滋賀県医大の入院先に足を運んだときには、10分15分の差で、病篤くなるよよん君とことばを交わすことができなかった。

どうぞ、帰り道、お気をつけて。

As one of unforgettable keepsakes of this world

忘れないうちに、書き留めておきたい。

昨日のゴードンの、イチローへの惜別の手紙は、訳していて大変に味わい深いものだった。対価が発生していないのをいいことに、安い酔いに任せて筆が走った部分はある。それでも、僕の中にはひとつの感懐が残った。次の部分だ。

People don't know how much you've helped me over these last five years, Ichi. We both know I've had good times, bad times, ups and owns, but your friendship never wavered once. You always stuck by my side through anything, and always had my back. If I was wronged, you would stick up for me every time, even if it hurt you getting on the field.

時系列でエピソードを振り返り(すべてのパラグラフがそのような構成になっている)、重ねてきて、ゴードンは、ここで少し抽象的なトーンに転じて筆を運ぶ。僕は次のように訳した。

この直近の5年間、イチロー選手、あなたが僕をどれだけ助けてくれたか、僕にしかわからないことがある。僕の人生に、いい時、わるい時、浮き沈みがあったことは、あなたもご存じでしょう。その中で、互いの友情は微動だにしなかった。あなたはどんな状況でも、ぴたっと僕のそばについてくれた。そして絶えず支えてくれた。僕が不当な扱いを受けたときも、あなたは毎回僕の側に立ってくれた。自分がフィールドに立つのが辛いときでさえも。

僕はこの部分のことばを選んでいたときに目を潤ませていた。

*

黄金頭さんが、イチローの「第一線からの撤退」に際して、自分なら2つのことを尋ねたいと記している。

goldhead.hatenablog.com

  • 「引退を決められた、今、この瞬間、現役生活を振り返って、一番衝撃を受けたピッチャーというと、まず最初に、どの選手を思い浮かべられますか?」
  • 「野球の神さまはいると思いますか?」

*

ゴードンは、(少し、問いの形を改変せねばならないが)おそらく答えを知っている。一番衝撃を受けたバッター。野球の神さま。

*

黄金頭さんは僕よりも年は少し―少しか?―若い。けれど、彼が積んできた、書物や詩との格闘の質量は、あるいは僕よりも重い。先日、阪神競馬場でお目にかかった際にも、確か、社会論と哲学の本を携えていた。その遍歴は、たとえば、次のような箇所に見ることができる。

あの村は贄川宿奈良井宿の中間に位置するが、中山道には面していない。どちらの村の枝郷というわけでもなく、江戸時代に一種の在郷町として発展したと考えられるが、なにを生産していたのか曖昧模糊としている。しかしながら、山への入会権を独立した村と同じく割り振られていた記録が残っている。また、年貢として特産の「やらし菜」を納めたと記録にあるが、どのような野菜かは不明である。なにか別のものを納めていた可能性もあろう。また、江戸の大火で漆器づくりをする村は多くの財を得たが、そのような記録も残っておらず、あの村がなにを生産していたのかは謎に包まれているといっていい。しかしながら、特産品であるおまんの小豆を行商する者の旅の記録などにも、わざわざあの村に立ち寄っていることがわかっており、あるいはなんらかの信仰に関わる場であった可能性もある。

kakuyomu.jp

なんだかんだいって、僕に「やらし菜」は出ない。だが、ここに「やらし菜」があるのとないのとでは風景が180度変わってしまうことは断言できる。そのあたりが、僕の限界だ。僕は大まかに哲学、中世古文、文芸批評、近現代思想史、詩歌、現代散文、という順で人文を習い、身につけようと努めた。必ずしも創作者になろうと思ったのではなかった。僕は生来の読者である。だから僕が創作者の顔をしているときは、苦々しい顔つきをして共産党に票を投じるときの悪い僕だ。

*

ゴードンは、イチローと打撃練習ができた。内野と外野とでは離れているが、同じフィールドに立つこともできた。文芸は違う。高い山に登り、隣の離れた山の頂きに目を遣る。けれどほとんどは、霧や雲に遮られて、隣の山の登山者は見ることができない。そもそも、その余裕もないことが大半だ。

千回か、万回に一度、首を振って目に入った人がいた。こちらも余裕がないから、その細部まではわからない。それでもその技術の卓越は一目で伝わるものがある。

kakuyomu.jp

4月7日(日)、黄金頭さんが現れないことは考えにくい。僕はゴードンがイチローを待ちわびた様式に倣い、30分前、当日9:30に、現地入りしようかと saying to myself, 心ひそかに思っている。このことは、むろん、彼には内緒にしてほしい。

弟者ディバリス

兄者イチロー

まずはお礼を。あなたが、僕の偉大なる友だちでいてくれたことに。そして今日まで、僕のお気に入りの選手でいてくれたことに。

野球をやると決める前、僕はあなたを見て、ひそかに思った日のことを覚えています。「マジかよ。おれみたいなやせっぽちのイチロー兄者が! イチローにできるならおれにだってできるんじゃないか」。あなたは、僕の野球への気持ちを募らせてくれた人。地元のエイボン・パークで、僕は子ども心にあなたを崇拝していました。僕たちは、生まれる前に世に出た古いテレビゲームに登場する選手に、「イチロー」にちなんだ名前をつけたりもしていました。

初めてお会いしたのは、あれは2004年のヒューストン、オールスターゲームでしたね。午後3時ごろ、僕が父親とフィールドを歩いていたら、あなたはすでにストレッチをしてゲームに備えていました。オールスターゲームでだよ!? そんな選手、ありえない!

当時、選手はだれもが大型化してホームランを放つような時代でした。でもあなたは自分を譲らなかった。自分に、自分の仕事に、自分の過程に、そしていちばん大切なこと――自分の様式というものに――忠実であり続けた。このオールスターゲームで、あなたは僕に示してくれた。僕にだって何でもできる、どんなことでも望むことができると。文字通り、僕たちの倍もある選手たちの中にあってさえ、できるのだと。

それから思い出すのは、2012年、ドジャーズのシアトル遠征時。僕はショートを守り、あなたの一挙手一投足を観察していました。結果、通算安打にも何本か貢献しましたね。だって、自分の守備よりも、あなたのプレーを見ることしか頭になかったから。(ドジャーズの当時の同僚にはすまない、けれど、あのイチロー選手なんだよ…)

(けれど)翌日、(僕にとっては)あなたと打撃の話をする暇もないうちに、あなたはヤンキースにトレードに出されて行きました。あのときは凹んだ。マジ凹んだ。それが2015年、今度は僕がマイアミ(マーリンズ)に移籍すると、その数日後にはあなたが移ってきた!

ぴょんぴょん飛び跳ねました。親友に「おい、イチロー兄者とおれが一緒にプレーするんだぜ? マジかよ、おれがだぜ? ありえない!」(だから春のキャンプで)ジュピターに早く駆けつけたのは、(訳注:2004年のヒューストンの出来事を想起)あなたがそこにいて、打撃や走塁を見られるかもしれないと思ったから。ようやく姿を見せてくれたとき、僕は神経質になって、歩いて近づいていった。それを、兄者! 兄者は僕に親切にしてくれた! そして、どんな形でも協力するよといってくれた。僕の中に衝撃が走った。それで僕はいまでも「おれがイチローとプレーを!? マジかよ、ちっぽけなエイボン・パークで生まれたおれが?」と口にしています。

この直近の5年間、イチロー選手、あなたが僕をどれだけ助けてくれたか、僕にしかわからないことがある。僕の人生に、いい時、わるい時、浮き沈みがあったことは、あなたもご存じでしょう。その中で、互いの友情は微動だにしなかった。あなたはどんな状況でも、ぴたっと僕のそばについてくれた。そして絶えず支えてくれた。僕が不当な扱いを受けたときも、あなたは毎回僕の側に立ってくれた。自分がフィールドに立つのが辛いときでさえも。

今回のことは、ツイートやインスタグラム(で表すに)はふさわしくないと僕は思いました。そこで僕は(この)適切な形を選びました。そこで、僕がどれだけあなたに感謝しているか、できるだけ大きな声で伝えなくてはと思った。あなたの友情と導きがなくては――それからあなたが僕に「秘密」を打ち明けてくれることがなかったら(もちろん、兄者の秘密は決して口外しないぜ!)、いまあるような強打者ディー・ゴードンは存在していなかった。

兄者、大好きだぜ! この先もずっと兄者は僕の人生の大切な一部です。どうか、第一線を退いた後の暮らしを幸多く、大切に。そしてオフの日には僕のところに来て、一緒に打撃を。なぜって、そんな日が、これからなくなって寂しくなるのがわかっているから。もう、兄者なしで野球をしなくてはならないのだから。

弟者

ディバリス

ディー・ゴードン - Wikipedia

www.asahi.com

お袋はショーケンが好きだった

うちのお袋はショーケンが好きだった。お袋はスマートな線の細さと激しさを感じさせる都会的な匂いを終生好んでいた。広岡達朗高田繁、Bz(!)、新庄剛志(!)、そして萩原健一。反対に、長嶋茂雄加山雄三のどこか野暮ったさをほとんど生理的に好んでいなかった。

入院先の病院でせがまれて、Bzと「傷だらけの天使」のDVDを持っていって見せてやったことを思い出す。そんなことを思いながら、ショーケンぎんざNOW!で行商をしていた違法動画を探していたのだが見つからなかった。

数年前にたまたま見た、めったに見ないTVで、ダウンタウンに「もうすぐ死んじゃうから」と、例の一瞬浮かべる寂しげな笑顔で話していたのが僕には印象的だった。

*

72年末に音楽活動を停止、僕が生まれたのがその数ヶ月後、物心ついたのが「ムー一族」の前後だから、お袋にいわせると「ショーケンのほんとうの凄さを見せてあげたかったわ」ということになるらしい。84年ごろに大麻か傷害で逮捕され記者会見を開いた昼のワイドショーが、不肖の息子のショーケン体験の始まりである。太陽にほえろは見ていたけれど、マカロニとショーケンを結びつけて見ていたかどうかは、怪しい。

*

「居酒屋ゆうれい」が、よかった。お袋も「あれはいいわね」といっていた。 

居酒屋ゆうれい [DVD]

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それで思い出したが、お袋はあぶない刑事の舘ひろしは野暮で見ていられないと目をそむけていた。柴田恭兵を好んでいた。中村雅俊のよさも自分にはわからないと何かのときにいっていた。