illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

【PR】おれも実はこっそり批判的な立場を表明した記憶がある

僕も実はこっそり批判的な立場を表明した記憶がある。

ただこれは僕の批判でも、もちろんよよん君のお母様の批判でもない。

言い訳でも加担でもない。

 おかげで治療にもずいぶん足しになりました。難しい病気だと認定されて、医療費も国や県のお世話にずいぶんなりましたけれど、それでもやっぱり足りなくて、どこのお家でも病気しはったら難儀しますでしょう。はずかしい話ですが、うちでも切羽詰ったことはそれはもうあります。

 2001年当時は、いまのように、病気のお子さんをかかえた親御さんに支援グループいうんですか、そういう動きをとって、代理で募金活動をしてくださるような方はいてはりませんでした。それに、仮にそんな機会があったとしても、洋ちゃんもわたしも「そんな、他人様のお世話になるようなみっともないことまでせえへんかて」いうて、とことん自分たちの力で、めいっぱい見栄や、意地のようなものをはっていたやろうと思います。

 たとえば、うちの場合は、洋ちゃんが積み立てていた自転車事故保険の満期払い戻し金を充てるところまで来ておりました。そこまでしていても――これはいうてはいけないことかもしれないですけれど――8月、9月のころにはいよいよ首がまわらなくなって、せっかく建てた2軒目の家を手放さないとあかんやろうかねえ、なんて洋ちゃんには聞こえないところで家族みんなで相談していたんです。

 それが変ないいかたやけれど、家を手放すところまではいかないうちに、10月の初めには、洋ちゃんはああなってしもうて。

「とことん親孝行な子やったなあ」

 なんて、いまでも思い出して上の子らと話すことがあります。

 洋ちゃんが聞いたら怒るやろうか、それとも、母さん、ええ子やろうと鼻を高くするかしら。

第3章:母 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

snack.elve.club

いまでも、僕は(当時の)「(~ちゃんを救う会)」には批判めいた気持ちを持っている。そして、そのような時代があったことを書き留めておくことが僕の語り部としての使命の1つだと思った。僕が書きたかったのは、よよん君のお母様のある種の倫理だった。意地とか、プライドとか、見栄かもしれない。そのことを、もっと大人になった日によよん君は気づいたことだろうと思う。

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そして以上は「はる君はわいの子である」命題と矛盾しない。ダブルスタンダードでもない。ダブルスタンダードから当然にすり抜ける生活信条であり、日々の行動規範であり、よよん君が「研修医ってさ」と尋ねた、そのグラウンド・ゼロに近いところに、id:elve さんも、id:CALMIN さんも、もちろん僕もいるのだと感じている。親の愛は偏愛だからだ。偏愛でない愛を受けたところで意味がない。

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通報しました\(^o^)/

さあ、小川榮太郎、どうだ。なぜ、しない。

追記:

野村秋介らが立ち上げた政治団体「たたかう国民連合・風の会」を、『週刊朝日』が「虱(しらみ)の会」とコケにし(=人の誇りを傷つける行動をとっ)たことに野村が抗議し、発行元朝日新聞社の東京本社に乗り込んで中江利忠社長(当時)ら経営陣から謝罪を受ける際に拳銃自殺をした事件について「彼の行為によって我が国の今上陛下は人間宣言が何と言おうが憲法に何と書かれていようが再び現御神となられた」[8]と追悼文集に寄せた[4]。

長谷川三千子 - Wikipedia

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簡単な話です。

小川榮太郎は今すぐ新潮社に乗り込んで編集長および新潮社幹部と対峙し、その責任を問い、その帰結として拳銃を取り出すなり、腹を切るなりすればいいのです。

www.shinchosha.co.jp

保守には、(認識不足の僭称であろうと)いくつかのけじめの付け方があります。その現代的代表は次の三者でしょう。西部は除きます。

おすすめは野村秋介君への敬意です。もし倣ったのなら私は見直そう。さあ、小川榮太郎、どうだ。なぜ、しない。その気になれば、チャンスは明日にだってある。金春流がいい迷惑だ。

黄金頭初期アンソロジー「さて、帰るか」解題に代えて(仮)

先の戦争が終わって満州瓦解の折、一人の噺家が着の身着のまま、食うや食わずで行き詰まっていた。デパートの柱によりかかり「いよいよだめかな」と思っていると、見ず知らずの紳士が歩み寄って声をかけてくる。聞けば、いつぞや、未だ事業に成功せざる前、噺家の話に勇気づけられたことがあるという。無論、噺家に覚えはない。

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噺家は紳士の進めるままに家に呼ばれた。やることがなかったからである。その道すがら、紳士はつなぎにパンを買って食べさせてくれた。ばかりか、紳士は自腹で牛肉を買い、それを噺家から家人への土産の態でとわざわざ持たせてくた。「地獄に仏とはこの人のことか」噺家は何と親切な人のいたものかと感激した。

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月とすっぽん鍋 - illegal function call in 1980s

まだ続きはある(月とすっぽん鍋2) - illegal function call in 1980s

これでお仕舞店じまい(月とすっぽん鍋3) - illegal function call in 1980s

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僕が黄金頭さんのテキストを本腰を入れて読み始めたのは2017年の春先だったと思う。精神は絶不調の極み、物語は書けず、けれど初めから救いと思って黄金頭さんを読んだのではなかった。「おれ」という意外に強い一人称と病の日常にそれまでは腰が引けていた。

それが虜になったのは「わいせつ石こうの村」を読んでからである。夢中になった、というか、あれはそのように人を夢中にさせる物語とは少し違う。何か古い叙情を携えている。例えば、引くならやはりここだろう――

その後、せっかく選ばれた魚拓は焼かれることになる。しかも、海の上、一艘の小舟とともにだ。小舟に建てられた棒のてっぺんに一番のわいせつ魚拓が掲げられる。小舟には島の女たちが摘んできた花々や、ぼくたち子供が集めたきれいな貝殻で飾られる。おまんという流れ者の女たちが、故郷の特産物だという小豆を供えたりもする。

やがて夕刻、日の沈む方向に、火の放たれたわいせつ魚拓の小舟が出航する。潮の流れで自然と沖に向かって進んでいく。それを見ながら、男たちも女たちも「ホトホト、ホダラク、ホーイホイ」と唱える。皆で唱える。唱え続ける。小舟も夕日も西の海も真っ赤に染まる。詠唱は小舟がすっかり沈んでしまうまで続く。

ぼくはときどき、あの不思議な詠唱を思い出す。今では売春宿も姿を消し、島はわずかな釣り人相手にほそぼそと生計を立てているという。わいせつ魚拓職人もたぶん跡継ぎがおらず居なくなってしまったに違いない。

第3話わいせつ魚拓の村 - わいせつ石こうの村(黄金頭) - カクヨム

僕は、これが読みたかったのだと思った。言葉の運びに無理がひとつもなく、「わいせつ」という以上に、いや、わいせつさは本作には欠片もない、夕暮れの海の景色が、語り手の感じるように伝わってくる。

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そのような無理のなさで物語を感じさせてくれる話は、とりわけ近年は《なぜか》ほとんど見かける機会がない。僕は「わいせつ石こうの村」を読んですぐに書棚から宮本常一の「忘れられた日本人」を取り出し、「土佐源氏」をめくった。

僕は、宮本の読者でいることの至福を思った。そして、僕よりも数歳年若いと思しき、ツイッターの自己紹介を「やりとりはしません。」で結んでいる、謎の人物に興味を持った。

彼は田村隆一を読んでいた。他にも僕が敬愛する詩人やノンフィクション作家の著作を挙げていた。僕は僕のほかに同じように田村隆一を捉え、僕よりも圧倒的に練れたスタイルで日々その日常を沈鬱に、しかしそれでいて過度の自暴に陥ることなく、日常を読者よりもまず先に自分に書き綴り、それでいてその姿が読者の励ましになるような書き手が――まさか、そこには、あり得ていた。

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僕自身、そのような生き方を何度も目指しては諦め、金を稼ぐことと本を読むこととの間で往復運動をしていた。だから僕は未だに中途半端だ。黄金頭さんは違った。病が、彼のそのようなストイシズムを形成したのかと当初は漠然と思っていた。しかしその感じ方はいい意味で外しているだろう。少なくとも、当人を前にして病が文学を方向づけたという表現は、彼がこれまで歩んできた道のりに対してフェアではない。

彼はもともと本を読み、思索し、言葉を紡ぐタイプの人間なのだ。先日亡くなったさくらももこがデビュー前に「りぼん」に載る矢沢あいに紙面越しに語りかけるシーンが話題になっていたが、僕が感じた構造はそれにけっこう近い。

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僕はそれまでものを書くことにそれなりの自負を持っていた。いまでも持っている。正確にはここ「はてな」で嘆きながら紡ぐことによって、自分なりにカタルシスを得て、少しは書けるようになった手応えをようやく感じ始めている。

黄金頭さんのうまさは、そういう自意識には向かない。読むこと、書くことに対する純度が、僕よりもおそらくずっと高い。話すように、声が聞こえるように、ジャブをフックをストレートを繰り出すことが、どれだけ難しく、現代ではまず見られない至芸であることか。

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僕が自分の詩作を諦めて、この人のバックアップに回るのが天命かもしれないと思うようになったのは、そのような経緯である。「セカンド・オピニオン」をどうにかこうにか形にしたその最中(さなか)にあって、「わいせつ石こうの村」と彼の日々の断章は、僕にとって最高のリファレンスとして機能した。書き終えたら、マルタ島かどこか地中海の島に飛んで、有り金が底をつきたら路上で野垂れようかと構想していた僕は、少しだけ自分の延命を思った。

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冒頭に紹介した噺家は次のように述懐している。

数年後、石田が帰国した。志ん生は家捜しに走り、毛布などを石田の家に持って行った。

それでも気のすまない志ん生は石田宛てに手紙を認(したた)めた。

「どんなことがあっても、出来るだけのことはさせてもらいますから」

石田は返信した。

「内地に引き揚げてから、あなたには大へんなお世話になりました。どうやってそのご恩返しをしたらよいかと思っているくらいです」

志ん生は石田の言葉に胸をつまらせた。

志ん生が内地に戻り、平穏無事な世界で石田にしたことと、満州国が瓦解した中国大連で、日本人は誰も命の瀬戸際にいたとき、石田が志ん生にかけてくれた情け、その恩の重さを、志ん生は「くらべもんにはなりません。月とスッポンほどのちがいですからね」と言った。

二人の美しい交流は生涯続いた。

 川村真二「その恩の重さは、月とスッポンほどの違いがある」(日経ビジネス人文庫『働く意味 生きる意味』P.49

*

僕は長く、志ん生になることが出来たらと願い、そう公言もしていた。僕には生涯で一瞬だけ、願った「志ん生の日々」が到来した。それは昨年2017年の晩春初夏のことである。志ん生には到底なりえないことを悟った――されど、そのことに僕は十二分に満足している。

そしてこれからは志ん生になる代わりに、黄金頭さんにとっての石田紋次郎、冒頭の話で噺家に声をかけ、パンと牛肉をごちそうした謎の紳士になれたらと願ったのである。

石田紋次郎の直観と願いが通じたのかどうかは分からない。志ん生は戦後、遅咲きの遅咲きとして一気にファンを掴んだ。その最初のピークは1947年48年、志ん生57歳から58歳にかけてのことだった。

*

黄金頭さん贔屓の僕としては、内心、それよりも少し早い時期に、彼の花がやってくるのではないかと思って、どきどきしている。おまんもきっと、その日の訪れを心待ちにしていることだろう。

枕草子 清水に籠りたる頃

(二八一段)

清水に籠りたる頃、茅蜩のいみじう鳴くをあはれと聞くに、わざと御使しての給はせたりし。唐の紙の赤みたるに、

山ちかき入相の鐘のこゑごとに戀ふるこころのかずは知るらん

ものを、こよなのながゐやと書かせ給へる。紙などのなめげならぬも取り忘れたるたびにて、紫なる蓮の花びらに書きてまゐらする。

原文『枕草子』全巻

(試訳)

清水寺に参籠していた折、ひぐらしの鳴き声がしみじみと季節を響かせていたときのこと。中宮様がわざわざ遣いをよこして下さいました。赤みがかった唐の紙に、

山ちかき入相の鐘のこゑごとに戀ふるこころのかずは知るらん

(山近く日暮れの鐘の響く数/あなたを思う―ご存知のはず)

それなのに、ずいぶんと長い参籠なのですね、とありました。失礼にならない紙の持ち合わせながなかったものですから、紫の蓮の花びらに返歌を記して遣いに持たせました。

*

枕草子には、こういう、中宮定子と清少納言との間で交わされた、微妙な心の綾のやりとりがいくつかあります。また、紫式部も、同じ冒頭「清水に籠りたる頃」で始まる断章が、確か日記にあります。

*

おそらくこれは、中宮がなくなってから清少納言追想したもの。清少納言は入相の鐘を聞いて、同じことを思っていたのでしょう。

かぼちゃカレーコールスロー(謎)

材料

  • かぼちゃ
  • たまねぎ
  • にんじん
  • キャベツ
  • チャーシュー
  • カレー粉
  • マヨネーズ
  • トマトケチャップ
  • こしょう

手順

  1. かぼちゃを切ってレンチンする。レンチンしたかぼちゃは粗くマッシュする
  2. 玉ねぎを切ってレンチンする
  3. にんじんを白髪ねぎっぽく切る
  4. キャベツを千切りにする
  5. 3.と4.に塩をする。少し放置して強めに握って水気を切る
  6. チャーシューをキッチンバサミで適当に切る
  7. 1.と2.が冷めた頃だろうから1.+2.+6.してボウルに移してこしょうを振る
  8. 7.に3.と4.を混ぜる
  9. 8.にカレー粉を振る
  10. 塩気は5.でついているので不要
  11. 9.にケチャップ適量、ごま油ほんの少量、マヨネーズをして和える

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こればっか作って食べてる。アレンジとして、リンゴ(酢)を垂らすとか、いろいろあろう。わしでもここまで来られたので、ここから先はホマレ姉さん(id:homare-temujin)にお任せしたい。

ちなみにこしょうとカレー粉はいいのを使ったほうがいい。

それと、何気ないようだけどたまねぎがポイントな。あるとないとでは甘さとまろやかさが段違いだ。

これはさすがのわしでもばあさんに自慢できる出来栄えだ。(´;ω;`)

ばあさんの話

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

おれのばあさんは大正12年9月、先の関東大震災の2週間ほど後に生まれた。三人姉妹の長女で、村の人たちから「仏様のよう」と慕われたばあさんの母親の血をそのまま受け継いで育った。だから「妹ふたりを学校にやるためにあなたにはわるいことをするけれど」と高等尋常小学校から上に進むことを諦めたときには様々のことを察して、黙って「はい」と返事をしたと聞く。国中が長い不況と事変のさなかにあったころの話だ。

果たして諦めた甲斐のあり、妹二人は高等師範に進んでそれぞれ中学の校長と高校の教頭を勤め上げた。

*

戦後すぐにじいさんと写真1枚か2枚の見合いで結婚をした。気難しいところのある爺さんをうまいこと操って家を支えたのはばあさんである。中島飛行場というところの工廠跡地を払い下げられた。そこで養鶏農家をやり、造園を、果樹を、盆栽を、庭木を、漬物を、樹々や花々を、そして娘とおれたち孫を育ててくれた。

*

ばあさんは平均して朝3時半に起きていた。春でも夏でも秋でも冬でも変わらなかった。野良着に着替えて、雑草をむしり、要所要所の見回りをし、最盛期には3,000羽を超えたという鶏の1羽1羽に対し方眼紙に実に几帳面なマルとバツを付けた。卵は採算点が低いので、無駄な鶏を飼っておくわけにはいかない。手慣れた技で首を折り、羽を湯がいてむしり、裏手の栗の木に血抜きに吊り下げる。そうして作られた紛れもない出来たばかりの鶏のささみが、朝食に並んだそうである。

*

おれの育った80年代にはすでにオイルショックを過ぎ、飼料と燃料の高騰に養鶏は割が合わなくなっていた。だからおれは最盛期からすれば雀の涙ほどの数の鶏が庭にほとんど放し飼いにされていた様子をかろうじて覚えている程度だ。鳥ささはほんの数回食べさせてもらった。うまいのかどうかはそのときわからなかった。ただ7歳からこれまで38年間によそで食べた鶏は正直どれもうまいと思ったことはない。「これではない」というのはわかる。

*

ばあさんはせっせとおれにものを食わせてくれた。未熟児で命の瀬戸際にあったおれをこの世につなぎとめたのはばあさんの献身である。牛乳と人参とアロエと卵黄とあと何だったか、おれの潜在記憶にはばあさんの姿がある。いちおう人の形になってからも、野菜や果物はほとんどすべて庭で採れたのを、せっせと摘んできては、いつも何かしら台所で煮たり焼いたり蒸かしたり切ったり皿に盛り付けたりしていた。もちろんおれに食べさせるためだ。

*

ばあさんが最初の脳梗塞を発症したのはおれが16のときだった。89年。自転車で近所に買い物に出て転んで帰ってきた。その後じいさんがいうには「頭のこの辺がどーんとじーんとしてしびれる」といって、横になった。そのときは回復したように見えたが、後遺症は残り、病自体の進行もあって、いや、それから先のことは書きたくない。

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2年前に書いたこれが精一杯だった。秋になるとおれはいつもばあさんのことを思い出す。ばあさんが9月生まれだったことと、実りの季節であることが、おれをそのようにさせるのだろう。

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おれが東京の大学に受かったとき、ばあさんは病気がだいぶ進んで、おそらく合格したことの世間的な意味は分かっていなかったはずだ。それでもいつにない様子で喜んでくれた。

そんなわけでおれはいまでも秋になると激しい後悔に襲われる。何も東京に出ることはなかった。地元の農業短大を首席で卒業して栃木県庁か足利銀行に入り、庭を受け継いで、ばあさんを看取り、同級生となんとなく結婚し、子を授かり、その様子を別の子に見せる人生がよかった。

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そんなことを口にするとおまえたちは「せっかくの学歴を」だとかなんたらだとかいっておれを窘めようとする。ありがたい話だ。おまえたちの親切にも、おれの気持ちにも、どちらにも嘘偽りはない。

けれど、おれにはもうひとつの人生の可能性があったんだ。

*

そしてこんな不肖の孫を、ばあさんは生涯誇りにしてくれた。ただのいちども叱られたことがない。記憶にあるのは褒められたことばかりだ。何もしないでいても褒めてくれるのである。そのことのもつ意味合いを、おれは後に夏目漱石の「坊っちゃん」を読んで痛切に思い浮かべることになる。

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おれはばあさんの気持ちに何ひとつ報いることができなかった。そのことはおれ自身がいちばんよくわかっている。

なつめ漱石「無鉄砲」といふことについて

先日、若者がはるばる九州から自動二輪車にのって梅干しの行商にやってきた。

その目の玉がとびでるほどの値のする梅干しに、おれが大枚をはたきながら思ったのが「無鉄砲」ということであった。

親譲り無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

夏目漱石 坊っちゃん

坊っちゃん」は、実に全編、この「無鉄砲」が幅を利かせている。丸山真男なら通奏低音とでも呼ぶだろうか。

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面倒くさいし「坊っちゃん」に失礼にあたるので解説言辞は略

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無鉄砲はある種、世間様への甘えというところがあるだろう。まあ、だいたいなんとかなるのである。坊っちゃんは証拠に武勇伝を終えたあと「ある人の周旋で街鉄の技手」になり「月給は二十五円で、家賃は六円」の暮らしに落ち着く。いまだったら、教員採用されて四国赴任、管理職を懲らしめて意気揚々とブログ記事にしたところで、月25万、家賃6万の谷中暮らしはそう容易に手に入るまい。もちろん、時代的経済的背景もある。

だが、何れにせよ、あくまでおとぎ話として楽しむとき、「坊っちゃん」の無鉄砲は、読者をほほえましい気持にさせる。

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バイクの青年はほとんど一切の計画をしてこなかったらしい。私はそういうのが好きだ。旅は本来、そういうのでなくてはならない。それなのに野郎どもは事前の計画や、ましてクラウド乞食などの狼藉を働き、せっかくの若い時期を自ら規矩にはめ込もうとする。

奴らは自由や反乱を標榜しているようで進んで資本主義の軍門に首を差し出しているのである。自ら否定したつもりの私たちの健康で文化的な最低限度の生活をもたらしてくれるこの実にありがたい資本主義様を、だ。

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無鉄砲は表向き如何に反逆児風に見えようとも、実にその根底に、時代や未来への健やかな信頼が横たわって居る。

そのような主旨のことを、江戸落語を交えて私は青年に伝えたつもりだったが、いまひとつピンとこなかったらしい。麒麟児は其の長い首を傾げていた。不首尾は偏(ひとえ)に私の技量不足に依る。

そこでこの掌を書き留め置くことにした。