illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

平成「やれてしまった」委員会

きょうは会社が休みなので(時効であるはずの)「やれてしまった」話を披露致したく。

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96年か、97年でしたか、駒場寮の悪友のひとりが「じゃマール」にハマっておりました。CA(キャビン・アテンダント)好きで、あ、じゃマールが何かというのは省きます。

じゃマール - Wikipedia

悪友のひとり(M君)は理2から教養学部に進んだ6年めだったかな、塾講師で生計を立てつつ、女好き、コンパ好きで、僕はそのころすでに鬱を発症していたから、いつも疲れて23歳なのにうつろな目とほうれい線が35歳以上に見せていました。

コンパがあるというので行くとCAさんではなく専門学校生。良家のお嬢さん風が3人、こちらはM君(悪友。主催者。Ma)、また別のM君(Mb)、私の3人です。まだ活気のあった渋谷センター街。お嬢さんをP(壇蜜風)、Q(広末涼子風)、R(TommyFebruary風)とします。たかし君はいません。動く点もありませんでした。

*

狙いのベクトルは次のような感じでした。私、Ma、Mbの3人でコンパに出るとだいたいいつも同じ構図です。

  • Ma→だれでもいい
  • Mb→携帯電話ビジネス / インターネットビジネス風のことに忙しい
  • 私→早く帰って漱石を読みたい

女性陣のみなさまには失礼な話だと思いますが、それでも、「釣れました」。大学のブランドはまったく虚しいものです。女性陣は、(後から判明しますが)

  • P嬢→Mb狙い
  • Q嬢→特になし(Pに引っ張られてきた)
  • R嬢→特になし(ご飯に釣られてきた)

でした。確かMb君がP嬢を持ち帰ったのだと思います。ちなみに時代背景をいえば、ちょうど、宮台真司がテレクラに呑まれていた頃でしょうか。また堀江君は南、北、中の3棟あった駒場寮の北寮に94年頃まで暮らしていたはずですが、そのうち姿を見せなくなっていました。

*

翌日か翌々日の女子品評会で、Q嬢とR嬢が私のことを「何か疲れた感じ」「老けてみえる」と評していたのに対し、P嬢は私のことを「かわいい」と主張したそうです。その後もちょくちょくちょっかいを出す(けれどきちんと付き合うのではない)Mb氏が、あるとき私にそう知らせてきました。「付き合っちゃえば」「…」

Mb氏はそのフットワークの軽さが災いして本郷に進むことなく中退、中部地方から上京されたお父様が「情けない」と呟きながら、寮部屋の荷物をまとめ、私たちに頭を下げていらっしゃったのが印象に残ります。いま、何をしているのか杳と知れません。

*

「ご飯食べませんか」

P嬢から私の携帯電話に連絡がありました。「ご飯くらいなら」。私はそのころ修士論文の研究レポートをまとめる1度目の作業に没頭しており、駒込にある東洋文庫に足繁く通っていました。それはもう強烈な鬱で、

「大きいんですよね」

そう、P嬢が乾杯の後でにっこり微笑んで尋ねてきたときにもその主語が何かわからず聞き返したくらいです。「え?」「ふふふ」「私ね、」

《(私)さんとは、最初に会ったときに、男女の間柄になると思ったの。あの日はMbさんのキラキラした瞳に押されちゃったけど》

渋谷のホテル街で夜を明かした後のモーニングで、私たちはこれからどんな体位で何回するかという作戦会議を致しました。P嬢はお医者様のひとり娘。埼玉から都内の美術系の専門学校に通っていて、基本的なデッサンが整っており、その細く長い指と器用な手先で、喫茶店のクーポンの余白に四十八手を次々と描いていました。

*

P嬢は99年に結婚、私は00年に結婚、01年に離婚をしました。

派手な作戦会議のわりには、「やった」のはそのとき1回(正確には一晩に3回)のことでした。

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北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(9)

前回に引き続き北条裕子「美しい顔」をやっぱり少しだけ丁寧に読んでいきます。とかいいながら単に身体に入ってくるように読んでいるだけです。

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では早速引用します。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

専用の薬でなくてもいいから何か保湿できるクリームがほしいと思った。ハンドクリームでも何でもよかった。「痒くてもかくの少し我慢してよ。すぐに薬、手にいれてあげるから」我慢できるような痒みでないのだろうがそう言うと、ヒロノリはこくりとうなずいた。

ここは、いいよね。引き続き、弟思いのおねえちゃんです。

あらゆる物資が足りていなかった。私たちの避難生活は一切のゆとりがなかった。なかなか物資が入ってこなかった理由のひとつは、震災から五日間、この町は入る情報も出る情報もいっさいが遮断されてしまったということだ。

「震災から五日間」を振り返っている箇所だから、2011年3月16日かな。ダウトだな。「あらゆる物資が足りていなかった。」これは、いいとしよう。少々言い過ぎと感じるけれども。「私たちの避難生活は一切のゆとりがなかった。」この感じ方、「一切の」と断じる感じ方は、果たして、3月15日、16日、17日(を、後に振り返った)ものとして、適切かどうか。

私たちは圧倒的な物資不足に窮していた。私は十七年間生きてきて初めておなかが空くということを知った。その言葉の概念を知った。おなかが空くというのは精一杯遊んできた夕方に足をふらつかせて家へ帰るときの感じではなかったのだ。疲れたプールのあと、胃の中に空気が入ってふわっと体が浮いてしまうような、ちょっと吐き気さえ感じるような、あの感じでもなかったのだ。

「概念を知った。」「概念を知った。」「概念を知った。」

重要なことなので3度繰り返してみました。空腹はそこから知る概念ですか? 被災地の被災者の感じる(た)3月15日、16日、17日の空腹から?

背伸びしないで「本当の意味」くらいで十分ではありませんか。

続けます。

しかしどうゆっくり食べてもどうしっかり嚙みしめながら食べてもそれはやはりクッキー一枚分なのであった。五日間、本当にどこからも救助はこなかった。一切の情報もなかった。他の地域のことも噂としてしか入ってこない。ラジオもこの地域のことは何も言わない。子どもがいつもどこかで空腹のために泣いている。便器には便が溜まっていく。バケツに用を足してもそれを流す水がない。校舎の屋上にSOSと書いたが反応はない。そろそろ一度も自宅に帰らずにいるのも限界と言って無理やり出ていく人がある。

あの…、ここは慎重になる必要があるよ。「一切」が多いんだよね。北条さん、本当にそうかな。僕が気仙沼の親類から聞いた、あるいはまさに3月15日前後にやり取りを交わした、「私のノンフィクション」とは、様相がいささか異なる。場所も異なるだろうし、ここでは、相対化を試みるに留める。3月15日夜には静岡で震度6強が発生して、富士山が噴火(爆発?)するのではないかと、僕の(避難をしていた)気仙沼の叔父は、身構え、北関東から都心方面(あるいはもっと西)に身を寄せようとしていた僕のことを心配して、メールを寄越してきた。

メールには、「きのう(14日)きょう(15日)お前外に出ていなかったろうな」とも、記してあった。栃木足利から那須あるいはその延長、茶臼岳の向こうに福島を見上げた、14日の空模様は(たしか曖昧な曇り空だったと記憶している)、ぞくぞくするような、妙な胸騒ぎをかき立てるものだった。これ以上は、怖くて未だに書けない。

*

16日の陛下のおことばは、宇都宮に戻るか、南下するか、その迷いの中にあった中間地点の小山、駅前の東横インで拝受した。

東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば - 宮内庁

私はそれが何ものに対してなのかは忘れたけれど、「戦わなくては」と思ったことを覚えている。陛下のおことばを思うとき以外は、水野解説委員の登場をひたすら待って(情報収集に努めて)いたような記憶もある。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(8)

前回に引き続き北条裕子「美しい顔」をやっぱり少しだけ丁寧に読んでいきます。

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「ねっ。今日はねえちゃんと一緒に寝よう」しゃがんで弟の腕を取ると弟は言葉にならない猫がうなったみたいな声をだした。上がりかまちに立たせ、足にへばり付いている靴下を剝がす。足の指は白くふやけ、爪が十枚ともあまさず青紫に変色していた。タオルで指の間に詰まった土を落とし、手で軽く摩擦する。

とりあえずの避難先とした公民館に行き、弟のヒロノリの趾から土を落として温めてあげる描写です。「言葉にならない猫がうなったみたいな」は、いかにも稚拙ですが、シーン全体としては、悪くない。

次が、いいです。

「よっしゃ」私は勢いをつけて泥を含んでぐっしょりした靴を持ち上げた。「今晩はあの話のつづきしてあげるわ。月で餅つくうさぎの話。あの臼の中でつかれているのは実は、実は……」抑揚をつけて喋りながら靴を下駄箱へ入れる。弟は笑ったのか泣いたのか、ぐすっという声をひとつあげて、小さなアゴを私のスカートに押すようにうずめてきた。これはしぶしぶオーケーの時のイエスである。

この、「よっしゃ」は効いている。「私」は対話を求めているのですね。ヒロノリ君の「しぶしぶイエス」の描写も細やかです。北条裕子さんは地震津波の全景といったポリフォニックな技術が求められるところよりも、こういう「もののをかし」「もののあはれ」に近づく描写のほうが向いていると感じます。

少し先にある、次の部分は、功罪半ばです。

そのうちライフラインは復旧する。水もガスも電気も普通に使えるようになる。学校も再開される。住む場所もどうにかなるだろう。そしたらゼンマイは止まる。それはもうじきだ。私にはわかる。本物の夜がやってくる気配がしている。それが忍び寄る足音が聞こえる。それは恐ろしい音である。父を失った時、それはやってきた。私は十二歳だった。お祭り騒ぎの通夜、葬式。たくさんの見知らぬ大人たちがかわるがわる小学六年生の私に親しげに声をかけてきてはかまった。

ここまではいい。まあ、「私にはわかる。」は、自意識が邪魔をするから削除しておきましょうか。世界が異変を伝えてくるときに、かつての個人的な体験が呼び起こされるという(いってみたら古典的でいささか陳腐な小説作法ではありますが)、このクラシカルな感じは、捨てがたい。

いつもと違う家の中、いつもと違う服、いつもと違う先生の態度、いつもと違う食べもの、いつもと違う母の様子。何かが変わっていくのだという気配。しじゅう緊張していた。嫌だとか苦しいとか思う隙はなかった。

ここは書かないほうがよかった。「いつも」「いつも」「いつも」「しじゅう」。前の記事でも指摘しましたが、これが北条さんの手癖の悪さです。表現効果を狙ったにしても、この手が頻繁に出てくると、さすがに鼻につくというもの。

褒めるほうに戻りましょう。

ヒロノリが配給された毛布の中で上体をくねらせ、しきりに腕を背中にまわすので私はまさかと思って「体、痒いの」と聞くと、ぼそぼそ小声で「かゆい」と言う。弟はアトピーをもっていた。乾燥するとすぐに痒がる。

弟思いのやさしいお姉さん。「私」(あるいは≒北条さん)の生い立ちから、311の前日に至るまでの、ヒロノリ君との関係を軸にした短編をお書きになるとよろしいかと思います。それでは芥川賞のほうに行けない? 行かなくたって、いいじゃないですか。

*

追記:

行けます。小島信夫庄野潤三

文学って何だろう?

さいとう君がすごいいいことを書いていて。

hatebu.me

ふいんき的には多くに同意するんだけどさ。

もはや文学は人に啓蒙を説けるような魅力は色褪せてしまって、人々の自発的な気づきを待つしかない。

こういうところが、まず以て構造的にものごとを見る人のだめさよね。

そのだめなほうに軸足を置きつつ、「20年お世話をしてきた」重みというか、沈黙の奥の引き出しにしまいこんだフレーズ、の数々に、この人(さいとう君)は反応している(はずなんだ)。

表現ではない。そこに現れた虚構だけど真実を鋭く突くストーリーが、新たな感動を生み出すことに対して一縷の希望は捨てずに持っていたいと願う。

で、すぐこういう言葉遣いに流されるんだ。ド左翼くたばれって感じだよね。何様だてめえはと。願ってる間に、貴様の恥のストーリーをひとつでも重ねたらどないやねんと。あ、やらんでいいから。民進党シンパにしておくには惜しい。共産党に入らんか。

極私的「やれたかも委員会」

このところ毎朝晩のように北条裕子さんの話をしているのでPVが伸びていてがっかりする。と、ともに、これは私の本来の芸風や持ち味ではないという弁明、釈明をしてみたくなった。もう20年も前の恋の棚卸をして、楽曲とともに振り返ってみたい。そう決めて、そのためにここにやってきた。

*

1997年当時私には好きな女性がいて、どのような不適切な関係だったかといえば、カラオケで彼女が「ジュリアン」(PRINCESS PRINCESS)を歌う、私が「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」(楠瀬誠志郎郷ひろみではない)を歌う、すると彼女が「あいのうた」(YEN TOWN BAND)を歌う、それでいてカラオケがお開きになれば手も握らず挨拶もせずにしれっと踵を返して池袋から当時住んでいた西巣鴨までのタクシーを拾う。そんな間柄だった。

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私は私が彼女のことを好きだと思っていた。彼女は自分(彼女)が私のことを好きだと思っていた。そう、後になって友人のひとり(A)から聞かされた。そのころの2chには「脈あり脈なし判定スレッド」というのがあり、悶絶した私は東芝Librettoという小刻みな端末と56K(?)PHSからあの煉瓦色の掲示板につないで、やっぱり悶絶していた。

「まだもたもたしているの?」と、彼女の友人のひとり(A)はあるとき私に尋ねてきた。けれど私はそれを罠か何かだと思って無視をした。LINEもなかった時代なので既読スルーには出来ずあからさまに鼻でくくった。するとそのことが尾ひれをつけた形で彼女にバイトの次の休み時間に伝わり、休憩後のバイトで見るからに血の気の失せた彼女が背を向けるという、そのような時代であった。

*

38度線を巡る膠着状態が続くあるとき、私が腹を立てたことがあった。それは彼女が「文学で芽が出なかったらどうするんですか」と尋ねてきたからだった。私は「どうしてそんなことを訊くの?」と(カチンときて)訊き返した。彼女は何も答えなかった。私は修士課程にいて、彼女は国立のほうに移転する前の西巣鴨 / 滝野川のキャンパスに通う大学生だった。きれいな人だった。背筋がすっとして、何ともいえない品のよさと知性を携えていた。それが阿呆な質問をしてきたものだから腹の虫が暴れたのである。阿呆は私のほうであった。

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音信不通になってから、10年、15年が過ぎたころだろうか。

私は例によって場末の悪所に居た。地元の方は腹を立てるかも知れんが、水海道というところの熟女パブである。連れ出し可という触れ込みだった。連れ出すつもりはなかったが、出張の手慰みに、火遊びをしてもいいだろうくらいの助平心はあった。

熟女たちに、ひとしきり落語を披露し終えた後、20歳過ぎくらいのヒリピン人のダンサーが入ってきて、私の横についた。

「コノアト、ドウシマスカ」

ヒリピン人のおねえちゃんは私の太ももをさすりながら耳元に口を寄せた。「何か歌ってほしい」と私は答えた。「オキャクサン、シッテルカ…」

彼女は「ジュリアン」を歌った。私は泣いた。わけもわからずに滾々と泣いた。彼女のことを思ったのも久しぶりだし、まさか泣くとも思わなかった。席に戻ってきたヒリピン人が「ナゼ、ナイテイルノ」と尋ねてきた。

私は10年か15年か前の思い出を話した。「カノジョノコト、スキダッタノネ」と、おねえちゃんはいった。私はその言葉を聞かなかったふりをして、そのまま涙を流し続けた。

「アイノウタ、メイキョク。ウタッテアゲル」とカノジョはいった。「100エンクダサイ」

私は手を振り払い、お会計にやや多めの札を渡して、そのまま投宿先のビジネスホテルに戻り、靴を履いたまま、寝た。

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彼女の歌う大黒摩季「Tender Rain」は、それはもう、見事なものだった。いまでも、耳の奥に残っている。

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そして、それに匹敵するだけの返歌の持ち合わせが、当時の私にはなかった。無論、いまだって、ない。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(7)

前回に引き続き北条裕子「美しい顔」を少しだけ丁寧に読んでいきます。

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人間の声、人の体が発する音などというものが意味をもつ世界ではなかった。大地が、剝げ、めくれ、腹の底を突き破るような唸り声をあげて躍り来るのを、自分もその中にのみ込まれぬよう、しがみついて祈るだけだ。祈りがあるだけだ。怒り狂った何かが人間の生気を奪いながら迫り来るのを、ただ私たちだけはどうか見逃してくれと祈るだけだ。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

ここ、幾重かの意味で間違いです。津波が押し寄せてくる場面なんですけれども。

まず、実際には、それでも、意味のある言葉を発して、何とか助けよう、助かろうとしていた人が一定数(以上)いました。一例として―別例ですが―今般の西日本の水害を見ても明らかです。

もうひとつは、「祈り」という言葉の遣い方です。津波が押し寄せてくるあの瞬間に祈るという感覚は、おかしい。私は揺れ(震度6弱)は監査に入っていた東京資本の地方工場の、2F会議室の作業机の下で頭を両手で覆い抱えながら、長い長い揺れを堪えていましたが、「これは死ぬな」という予感に、ひたすら左右に振られながら、身震いするばかりでした。そのときに祈りと近接するかもしれない、けれど決定的に異なることを私は行っていました。それは「神頼み」でした。

津波は、帰宅した後、翌(々)朝にかけてにTVで見ていました。為す術もなく、呆然と口を開けておりました。

岩波古語辞典「祈り」(P.125)に、次のようにあります。

《イはイミ(斎・忌)・イクシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意。ノリはノリ(法)・ノリ(告)などと同根か。みだりに口にすべきでない言葉を口に出す意》

これは辞書の編集主幹、大野晋先生の感じ方でほぼ間違いあるまいと思います。

以上を(さりげなく、しかし極めて重要)踏まえて、

(1)神や仏の名を呼び、幸福を求める。[引用者、中略]

(2)《転じて》呪う。呪詛する。[引用者、後略]

とあります。現代語にもそのまま息づく感覚ではありませんか。大地の異変を目の当たりにし、人々(それは取りも直さず311のときの私達)は、その瞬間にはただ慌てふためき、無力なままだったかと思います。祈るのは、落ち着いた後に、《次はどうかありませんように》と地鎮を行うときではないでしょうか。それを「見逃してくれと祈る」(北条さん)は、異変時に直結してしまう。

「美しい顔」の引用に戻ります。重ねて、想像力ではやはり太刀打ち能わざると思うほかにない描写に、道を遮られます。

何をしてんだよッ!早くあがれ」男たちが怒鳴る。「あがってーェ、お願いぃ」女たちが叫ぶ。「あーあーッあーあーッ」老婆が言葉にならない声でわめく。女子が笛のようなピーっという甲高い声で泣く。うるさい!だまれ!もうこの建物のすぐ真下まで来ているというのに坂道を上がってこない人がある。「ばかやろう!こっちだ!こっちへ来い!」人々の声は下の人には聞こえない。「あがって!こっちよ!こっちぃ!」「死にたいのか!上がれって言ってんだよおッ!」高台にいる人々は口々に叫ぶ。ごごごごと地響きを立てて波は来る。「ちくしょう!」フェンスを殴りつける男。

これも、違うなあ。(1)東北の人の言葉遣いではない。(2)なかったとはいいませんが、もう少し、為す術のない落胆、流されゆく諦め、ため息、落涙、ああ(あはれ / 哀れ)という呟き、漏れ、嘆き、それが、具体的な「こっちだ」「あがって」(北条さん)といった氷上の言葉のより深い水面下で、より―圧倒的に―大きな錐や直方体を成していた感覚が、私には強い。(3)「うるさい!だまれ!」これなど、ごく控えめに申し上げて、あの時の感じ方として、(よしんば表現効果、造形の一部だとしても)(書き残してしまう/立ち止まってみないのは)(想像者/表現者として)ちょっといただけない。

そして、少し置いて、

私たちは山の斜面に移動していた。第二波がくるぞ、ここも駄目だ、もっと上へ上がれと言われて私たちはここまで這うようにしてあがってきたのであった。さっきまで「逃げろ」とか「高台にあがれ」とか「あーあー」とか叫んでいた人たちはもう静かになって誰も大きな声をあげる者はいなくなっていた。

この箇所(「もう静かになって」)は、何かを掴んでいる気がする。けれど、すぐ後に続く、

そのとき私には自分が生きているのかはっきりと断定できないような、体と脳みそが宙に浮かんでしまったようなそんな感覚がしばらく続いていた。

この自意識と過剰な表現が、せっかく手にしかけた《静けさ》の感覚から、読者を遠のかせてしまいます。北条さんあるいは「私」は、先の岩波古語辞典の表現を借りれば、自分は祈っている、自分にあるのは祈りだけだと仰りながら、《みだりに口にすべきでない言葉を口に出す》ことによって、311を、被災地を、被災者を、呪詛しています。

していない、そのつもりはない/なかったとは、仰るまいな。

呪詛の意図の有無は問題ではありません。《みだりに口にすべきでない言葉を口に出す》こと、それ自体の咎のことを、私の中の折口信夫が申し上げております。また、私は北条さんの作意にまんまとはまっているとも思わない。口にすべきでない言葉を書く理由が何なのか、作者は作中で明らかにしているでしょうか。

(以上を記して、私は、北条裕子「美しい顔」の、何とも読むに耐えない、嫌な感じ、自分なりの理由に、ようやくある程度はっきりと触れた気がしました。)

*

今回、以上です。また今日夜か明日朝、続きを行います。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(6)

今回からは少し丁寧に読んでいきます。そう宣言したので。

dk4130523.hatenablog.com

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次の箇所は本作品「美しい顔」での北条さんの文体、特に文末処理の特徴がよくもわるくも表れたところです。

少しばかり世間知らずのように無邪気に他愛もないおしゃべりをしていればどんな場合でも事をうまく運ばせることになる。ある程度のことはうまくいく。ある程度の善意をもってもらえる。ある程度の話は解決される。自分が何をしゃべればいいか、どんな表情をしてどんなふうに振る舞っていれば周りの人が一番喜んでくれるのか、私はうっすらとわかっていたように思う。それでだいたいのことがうまくいっていたのだ。しかし今、この自分を知らない他人のように思う。はじめて出会う女の子のように思う。私はこの女の子がかなり苦手だった。この人は強烈だった。ねじけて性格の悪いこの女の子と私はうまくやっていけそうにないのであった。こんな女の子になど誰も関わりたくないだろうと思った。目に映るものすべてが憎いと両目をカッと見開いて目前を通るありとあらゆるものを睨みつける女の子になど誰も目もくれないだろうと思った。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

内容は大したことは書いてありません。先日のコメントで御本人もある程度お認めになったように、もはや明らかだと思います。そのことはどうでもいいのです。文末だけ追ってください。

  • 「なる」(中)→「いく」(短)→「もらえる」(短)→「解決される」(短)→「思う」(長)

カッコ内は文の大まかな長さです。続いて:

  • 「のだ」(短)→「思う」(中)→「思う」(短)→「だった」(短)→「だった」(短)→「あった」(中)→「思った」(短)→「思った」(長)

t音ならt音、rならrの同系統の韻を踏んだ短い文を重ねることでリズムを持たせ、ある程度まで走って飽きてくると、長い文で締めにかかる。いやないいかたですが、これなら、いくらでも―といっては語弊がありますが―一人称の「思った」文体の私小説は量産が可能です。また、これも、まあ実際そうなので書いてしまいますが、文章を書き慣れていない(≒なまじっか書き慣れた)人が陥りがちな《タメのなさ》です。吉田健一丸谷才一、あるいは飛躍を許していただけるのでしたら、樋口一葉紫式部の対極にある。

だれがいいだしたか知りませんが(本多勝一「日本語の作文技術」、あるいは志賀直哉あたりかな)何かこう、短い、簡潔な文をよしとする風潮があります。私は(いまさら/N番煎じやもしれませんが)異を唱えたい。短い文を筋よく書けたなら、むしろ味は長めの文にある。大野晋先生も「日本語練習帳」で《センテンスの骨格》といういいかたで、そう仰っています。

北条さんの文体、リズムは、ざっくり申せば平板です。ある種の疾走感らしきものは、確かにあります。

私たちはただそれを見ていた。そこにいる人々はあまりにもシンプルで普通の言葉を発していた。あーあー。どうしよう。すごい。いやぁ。うわあ、うわあ。人々の口から出る言葉はあまりにも拙く、ちっとも目の前の光景を伝えていなかった。私たちははっきりと老人が波に足をとられて引きずりこまれるのを見ていたし人を閉じ込めたまま車が波の上を木材の渦といっしょにクルクルとまわっているのを見ているというのに本当に単純な言葉しか発していなかったのだ。くるよくるよ、あーきたよ、きちゃったよ、あれも動くよ、ほら動いた、あーあれも動いちゃった、もうどうしょーもない、だめだ、だめだめ全部だめ。渋滞していた車は列の形を保ったままそっくり浮き上がりゆっくりと回転しながら列を崩して散っていく。

ここなども、恰好の例ではありませんか。

やっぱり、文体ひとつをとっても、芥川賞候補に名を連ねる/連ねさせるには、時期尚早でしょう。群像新人賞の二次選考にぎりぎりかかるかどうかくらいの味です。これでは、黙しがちな東北人の内面、まして被災者の気持ちは、掘り下げられません。コツコツってちょっと叩いて、だーって引いてまとめちゃうんだもん。何度も何度も叩かないと。ねちっこく、粘り強く耳を傾けないと(北条さんが参照されたノンフィクションの仕事がそれをなさったように)。それを行うことなしに、北条さんが目指したつもりと仰る「人間の理解」には到達し得ないと私は考えます。加えて想像力のうちにご自身が紡いだ言葉を自ら「人々の口から出る言葉はあまりにも拙く」「本当に単純な言葉」と切り捨てるなんて作者は一体何がしたいのでしょうか。

あれ? 辛辣になってしまった。すみません(泣)。

*

追記:

上で私は「量産可能」という表現を用いました。北条さんらしい、北条さんにしかできない「つっかえる」味が味として練れてきたときに、量産不能の文体が誕生するように思います。吉行淳之介の(一見流暢を装って)こきこきっとした、不器用な顔とでもいったら伝わるかな。

芥川賞への道を目指すのは、それからでもよろしいでしょう。

*

【PR】追々記:

それで思い出した。ここ、うまくない? 短から長を連ねる感じが(笑)。

秋の日がやってきた。

訃報が伝えられると、冒険者たちはわれさきにと酒場に集った。

かれらは、おのおの、ひとしきりメッセージボードを眺め、嘘やわるい冗談ではないことを確かめると、大切な友だちを失ったときにしばしばそうするように、ほかにどうしようもないといった表情を湛えて、肩を落としながら帰途についた。

道すがら、銘々の流義に則り、東に住む者は西の空に、西に住む者は東の空に向かって淡い祈りを捧げている。その日ばかりは、酒や煙草を絶った人もいると聞いた。

やがて宵が立ち込め、それやこれやを押し流してくれる夜の帳が下り、酒場と辺り一面を覆い尽くす、その中を、冒険者たちはひとり、またひとりと踊りおえていった。後ろを振り返り振り返りし、ことばにならないつぶやきを夜に溶かしながら、コンクリートの壁の合間に煙が吸い込まれていったのは、その日、ずいぶん遅くなってからのことだった。

船橋海神「セカンド・オピニオン」

おれ、これ書くのに、呪文を唱えながら、船橋の夜を幾度彷徨徘徊したことか。よよん君、ごめんな。