例年、暑い盛りになると、トンデモ学説的なものを見たり聞いたりします。
教師「暑いとむやみにいうな。涼しいといいなさい」
僕「どうしてですか」
教「言葉にはことだまというものがある」
僕「で」(※僕はここですでにいらいらしている^^;)
教「でじゃない! xx(おれ)君は後で職員室に来るように。それはさておき、みんなが暑い暑いいうから涼しくならないのだ。日本に涼しいという総量が上回れば涼しくなる」
僕「うそつき。超うそつき」
ブログ記事や、ツイートでも、ちらほら。
これただの嘘ならまだいい。まず「心頭滅却すれば火もまた涼し」の誤解釈であること、次に、誤解釈に基づく悪しき精神主義に地続きだから、困ります。
ただ、僕はオピニオン記事が嫌いなので、そういうの(正面切っての批判)を書くつもりはありません。
それで、心頭滅却云々に関しては、手っ取り早い以下を参照して、「なるほど、なんか違うな」くらいに思ってくだされば十分です。
zidori.xyz
今日の本題に入ります。日本語の古い形では「ことだま」「ことのは」は、どのような関係/構造をとっていると見るのがよさそうか。
だいたい、こんな具合になっています。もちろん、もっと、未分化だろうけど。
マル囲み1-4の象限は、数学の象限とは異なります。この模式図限りの便宜的なものと思ってください。念のため、いつもの大野晋先生の岩波古語辞典を引いておくと、
- (P.516)ことたま(略)人間にタマ(霊力)があるように、言葉にもタマがあって、物事の実現を左右すると未開社会では強く信じられている。そこでは言葉とコトとの区別が薄く、コト(言)すなわちコト(事)である。言葉はそのまま事実と信じられている。(略)
- (P.517)ことは(略)《語源はコト(言)ハ(端)》。言(コト)のすべてではなく、ほんの端(はし)にすぎないもの。つまり口先だけの表現の意が古い用法。(略)
と記してあります。図は、これと、いくつか覚えている万葉や古事記の用例と照らし合わせて、まず間違いのないところで象限を切りました。
暑いときは何が起きているか
- マル1:暑いの神様が超お怒りになっている。
- マル3:気温が上昇する。
- マル4:人の口に思わず「暑い」が漏れる。
暑いときにことのは「涼しい」を合唱するとどうなるか
- マル4:「涼しい」「涼しい」「涼しい」(以下略)
- マル3:(しーん)暑いまま
- マル2:(しーん)
- マル1:暑いの神様は超お怒りのまま。
言の端/葉は、結果に過ぎません。いうなれば、火事の現場で「水」「水」と連呼するだけで火を消そうとするようなものです。
ではどうしたら涼しくなる可能性があるか
原理的には、2つです。
神事には貢物が伴い、生贄が含まれるのですが、便宜的に分けておきましょう。
お祓いをする神主のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
生贄の例(ただし間違い)
最近とみに知られた秘法ですよね。かなりいい線行っている。でもこれ間違いの可能性がある。
なぜ松岡修造国外追放は誤りなのか
西暦400年頃の2冊の歴史書(A)/有職故実(B)があったとします。
- 歴史書(A):386年夏に大旱(大日照り)があった。民は大いに苦しんだ。
- 有職故実(B):386年夏に帝は松岡修造を東晋に遣わした。xxxyyyzzz(破れて読めない)。
- 再び歴史書(A):386年秋は穏やかな気候を取り戻した。一部で不作があったが民は持ちこたえた。
西暦700年頃に帝に取り入り政権奪取を目論むPさんがいたとします。この年(700年)夏は猛暑。さて、Pさんは歴史書(A)と有職故実(B)が読める。一か八か、帝に次のように提言するでしょう。
Pさん「帝、暑さを鎮めるために、松岡修造の血筋の者をペルシアに派遣してはいかがでしょうか。有職故実にこれこれがあります」
実は、破れて読めないxxxyyyzzzの部分こそ、暑さを鎮める秘法が記してあった。かつ、386年秋の穏やかな気候を取り戻したことと、386年夏の松岡修造の東晋派遣には、(近代科学はもとより古代の世界観でも)因果関係はない。のですが、それでもPさんは帝の手前何かをしなければならない。その苦肉の策(にすぎない)というわけ。
気をつけないと、けっこう、こういうのがあります(史料批判の必要性)。
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ではお呪いはどうすればいいのか
分かりません。
ただ、上の松岡修造東晋派遣のように、後世の陰陽師たちは、史書の伝える天候や儀礼など(有職故実)を丹念に調べ上げ、そこに何か「目下の災厄を祓い清める何かの照応関係」のようなものを見出そうとした。そしてそれを、門外不出の口伝として、代々伝えたとか、伝えなかったとか。これが、おそらくマル2に効くのでしょう。
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以上は、少々の与太話を含みますが、次のことだけはどうかお忘れにならないでください。
- 言の葉は、人の口から、「たま」の結果が「は」として、ふと漏れる/漏れたものに過ぎない。
- 言の葉に、言の葉で対抗しようとしても、少なくとも素人には無理でしょう。何の効力もない。そればかりか、悪影響すら及ぼしかねない。ついでにいえば、好きな人にただ好きだと伝えるだけで両思いになるわけがないでしょう。なったら苦労しないんだ!(なぜか個人的なたぎる思いが…)。
人には言の葉が降りてくるのを待つことしかできない
図を再掲します。
リンクを貼ります。
tanpopotanpopo.hatenablog.com
実は、今回の記事は、うんちくを傾けるのが目的ではなく、id:tanpopotanpopo さんのお気持ちが、なんというか、痛いほどわかる(気がする)。そのときに、
コトノハの神様は、まだ近くにきっといるはず。
それは、書くことをやめてしまわない限り、目には見えないけれど、側にいるのだ。
短歌も頑張ろう。また詠もう。
(一部、僕はたんぽぽさんの歌は決して謙遜なさるようなものでないと思うので、引用時に僕が削除しました)
万葉の御代から、人の営みは変わらないんだなあって。何とか、マル3の「現象の端切れ」あるいはマル2の「言の本質的な部分」に、マル4の言の葉のところでじっと耐えて、アプローチするしかないんだなあ、そうだよなあって。マル4からマル1、2、3は遠いけど、そばにいると信じ、願う生き物だよねって。
そんなことを、思いました。
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(あれじゃない? 「運動瞑想野菜三百五十喝!」とかのおまじないと実践が、意外に(マル1には届かないにしても)マル2やマル3を揺り動かすのに、効き目があるのでは?)
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以上、いつもながらのお粗末様でございました。