illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

船橋残留です

船橋残留が正式に決まりました。

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あまりぺらぺら話すようなことではありませんが、昇進の内示をいただきました。基本属性が悲観的な私ですがうれしいはうれしいです。徳島がいやだというわけではありません。むしろ都道府県の中ではかなり好き。これくらい。

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徳島県のキャラクター | かわいいフリー素材集 いらすとや

今回、何がうれしいって、ねこちゃんたちの環境が変わらずに済むことです。それが受け入れ時の大前提たる約束でした。

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さて、何人かの方には、別チャネルでご心配をおかけしたこともあろうかと思います。申し訳ございませんでした。しかしこの間、私自身も手をこまねいていたわけではないのでございます。

転勤をどうにかできないものかとしゃかりきになって働き、会社の思うつぼではありますが、プロブロガーのみなさんの仰る「結果」のようなものを出しました(ペッw)。それで宣戦布告です(会社に)。俺は残りたいといった。俺を置いておきたくないのか。要らないのかと詰め寄りました。

会社の言い分がふるっていました。

「やればできるじゃないか」

引き続き、のらりくらりとやっていく所存です。

そしてお盆に、休みがとれそうですので、よよん君のお墓参りへ。ちなみに、例の件でご支援くださったみなさまには、そろそろ、自筆の返礼の準備を始めています。

文月吉日

船橋海神 拝

 

追伸:

id:cider_kondo さん、id:smartstyle さん、その節はコメントありがとうございました。今後も徳島出張の機会はありますので、ぜひとも参考にいたします。また今後の出張時には出来る限り事前に情報開示します。特に id:cider_kondo さん、ご縁がありましたらご挨拶と、ご飯のお誘いでも、させてください。よろしくお願いいたします。

くーちゃんと船橋の話

実に深い感銘を受けた。

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ココッチィさんのとこは食わず嫌いで見ずにいた。そっ閉じしたこともひとたびではない。すまない。だが今回の記事で印象ががらりと変わった。理由は大きく2つある。

  • 自分以外のもののために戦っていること
  • 戦いかたが極めて具体的であること

俺は改心して思い立ったらすぐに謝る性質(たち)なので頭を下げてきた。

これだけだと気障なおっさんで終わっちまう。また、俺の自己否定との戦いを前面に押し出して書くつもりもない。そんなのは読む人にはつまらねえからだ。代わりに、俺から具体的に2つ方法論を補いたい。@rico_lullさんのようなすばらしいパートナーが見つかりにくい人を意識している。

やさしいねこちゃんを受け入れ、好きな気持をその都度つぶやくこと。ねこちゃんとたくさんお話しすること

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俺は何をしていてもくーちゃんが好きなのである。くーちゃんのためにあと20年は部屋をきれいにして健康に生きるのである。

できれば暮らしている街を好きでありたい。散歩の際にはその気持ちを声に出したい

私はいま暮らしている船橋海神という街が好きで好きでその気持ちは歌を詠ってしまうくらいだ。

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むかし吉行淳之介という偉い助平な人が遅い作家デビューをした。

吉行淳之介 - Wikipedia

齢30を重ね、肋膜を患い、才能と不安との葛藤の中で吉行は水辺の街を歩く。そのようにして「原色の街」「驟雨」は生まれた。もちろん、できれば吉行自体を読んでほしい。だが、まずは村上春樹でもいい。「若い読者のための短編小説案内」の中で村上は、水辺を歩き、自分をどうにかして励まそうとする吉行に万感を込めて解題を行う。

引用は行わない。買って読むべきものだからだ。まったく損のない1冊といえる。

(私は、村上の作品の中で実は本書が一番の出来ではないかと心密かに思っているのだが、その理由の1つがこの吉行へのシンパシーである。)

話を戻して、俺は船橋の街を、水辺を歩くとき、ふと、そしてしみじみと、吉行のことを思うことがある。そして俺は「船橋はいい街だ」「なんていい街なんだ」とつぶやく。漏れることもあれば、意図して声に出すこともある。実際、これまでに住んだいくつもの街の中で、これほどまでに「自分を受け入れてくれていると感じさせてくれた」街は他になかった。

故郷を離れはした。だが、俺はこの街で暮らしている限り大丈夫だ。

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そうして、散策を終えると俺は部屋に戻り、「くーちゃんちゅきちゅきですよー」と柔らかい背を撫で、せっかくだからもったいないのでおすそ分けをしようと思い、世界に向かってつぶやくのである。

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とはいえ、もちろん、いまでも心療内科通いは欠かせない。

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そのことは、ブロガー諸賢の「常識」からすると大いに投げやりな俺の人生態度として、まるで読まれたい気を感じさせないタイトル(と、文体)に象徴的に表れていると、我ながら思う。

けれど、繰り返しになるようだが、それと「だから生を断念する」は別のことだ。俺はタイトルどおり、くーちゃんのために船橋海神で生きているのである。

太宰も云っている。

太宰治 かくめい

(よよん君のことは「ために」というより「代わって」という感じだ。その話はまた別の機会にしたい。)

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改めて、いいものを読ませていただいた。@rico_lullさんには感謝を。

新作小咄「一度でいいから」

ああ志ん生になりてえなりてえ…って思い詰めてたら、帰りの総武線で座ったまま寝ついちまったらしい。

 夢ん中に師匠が出てきてくださった。

-あれま、なめくじの師匠じゃないですか。こんちは

「おう。お前さん、俺になりてえんだってな」

-はい。でも、師匠のお許しはなかなかむつかしそうですね

「いいよ」

-え?

「いいってんだ。なっていいよ」

-本当ですか。ありがてえ。ありがとうございます

「俺でよけりゃあ。好きなだけおなりよ」

-いえ、一度でいいんで

「何だいその言い方は」

-実はその、二度目三度目は決まっておりまして

「俺じゃねえのか」

-えへへ

「誰だいそいつは」

黒門町

「やな野郎だね。俺を目の前にして黒門町だなんて」

-噺は、志ん生師匠がいちばんなんで

「そうかい。そう云ってくれたら、少うしは嬉しいね」

-噺と、酒と博打はこりゃもう師匠に敵う方はいない

「それでも黒門町になりてえんだな」

-ええ。その、こっち(小指を立てる)のほうで

「それだ。さすがに俺もそれだけは敵わねえ」

-でしょう。それでまた四度目には師匠んところへ噺のおさらいに戻ってくる

「ん?」

-どうしました

「それじゃあ何だか俺がちょいっとかわいそうだ」

*

ふなばしーふなばしー

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そこで目が覚めた。

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ああ、志ん生になりたい。60歳までには、何とか、すがりつきたい。

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相模は何を嘆いているのか

今日は、えだのんと江添さんと話をした。大変に気分がいい。加えて、marco1843さんとも実に中身のあるお話をさせていただいた。前から漠然と思っていたことが整理できた気がする。

相模(998-1061)。相模 (歌人) - Wikipedia その1051年の歌と伝えられる。

恨みわび/ほさぬ袖だに/あるものを/恋に朽ちなむ/名こそ惜しけれ

百人一首にもある。実にいい歌だと思う。多くの人は訳を知らないだろうから、それをいいことに俺が訳す。

その前に、まず品詞分解をしておこうか。

  • 恨み(マ行四段活用動詞「恨む」連用形。恨みに思う)
  • わび(バ行上二段活用動詞「侘ぶ」連用形。困り果てる)
  • ほさ(サ行四段活用動詞「干す」未然形。乾く)
  • ぬ(打ち消し助動詞「ず」連体形)
  • 袖(名詞。着物の袖)
  • だに(副助詞。軽いものをまず挙げ、重いものを引き出す前振り。すら/さえ)
  • ある(ラ行変格活用動詞「あり」連体形)
  • ものを(接続助詞。逆説。それなのに)
  • 恋(名詞)
  • に(格助詞。理由。のために/によって/せいで)
  • 朽ち(タ行上二段活用動詞「朽つ」連用形。立ち腐れする)
  • な(強意確認の助動詞「ぬ」未然形。きっと/必ずやしてしまう)
  • む(推量の助動詞「む」連体形)
  • 名(名詞)
  • こそ(係助詞。強意)
  • 惜し(シク活用形容詞「惜し」連用形。残念だ。がっかりだ)
  • けれ(気づき/詠嘆の助動詞「けり」已然形。こその係り結び)

よし、品詞分解が出来ると気持ちがいい。

歌を詠む平安貴族のイラスト(女性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

訳そう。

恨み泣き疲れて乾く間のない着物の袖。(それですら困っているのに)とりわけ残念なのは(心ない人/世間が)恋の(噂をする)ために立ち腐れてしまう私の名前。ただ見ているほかにないのね。(みんな私の恋のことも知らないで)

断っておきますが、この訳は世間に流布しているものからするとやや異端。リンクは貼りません。検索してみてください。もっとじめっとした訳が出てくると思います。

しかし私はこの自分の訳に自信があります。このたび先にも引いたmarco1843さんと話をする中で気づき、自信を深めた。

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鍵は「朽ち惜し」の理解です。

現代語の「口惜しい」はルビが「くちおしい」だったり「くやしい」だったりします。これは「くちおし」系の意味と「くやし」系の意味が近現代に合流したことによる混乱です。中世人は両者の違いを意識していた。平たく、次の点を覚えておいていただけますか。

  • 朽ち惜し:木が朽ちていく。それに手を差し伸べたいが見ているほかになく残念だ。
  • くやし:悔やまれる。取り返したいが過ぎたことなので手が届かなくて残念だ。

違うでしょう? 朽ち惜しは、【これから】起こることに歯がゆく思う気持ちです。くやしは、【過ぎたこと】に歯がゆく思う気持ちです。後悔の悔です。このことは大野晋先生がときどきぽろっとお話なさっています。

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翻って、相模。

相模は、恋の内実を知らずに、あれこれ口さがなく言い立てる世間に、為す術のない自分に「がっかりだわ」といっている(ように、僕には読めて仕方がない)。「恋に朽ち」「名こそ惜し」と、修辞上の必要から、朽ち惜しを分かち書きにしていますが、相模が朽ち惜しの語感と意味をここに盛り込まなかったとは到底考えられない。いいですかみなさん(杉村太蔵ふうに)、相模は恋が惜しいとはいっていない。私はそのことを伝えるため、わが半生44年の決算として今日ここに話をしに来た。

恨み泣き疲れて着物の袖の乾く間のないほどの恋。その限りにおいて相模は満足している。いいなあ。俺もしてみたい。一方、残念なのは、私の名前だと相模はいう。「こそ」は強意限定です。私が惜しんでいるのは世間の誹謗中傷にあう私の名前であって恋ではない。

恋のために名が朽ちる。そういう恋をしたと、相模はいう。いっていない。いや、いっている。平安歌人というのはそういう生き物だ。

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一方、ここでみなさんに残念かも知れないお知らせがある。

この相模の歌は、戯れです。永承6(1051)年の宮中歌合に献じた歌。相模がこの恋をしたかどうかを史実は明らかにしていない。俺はしなかったのではないかと訝しむ。していないだろうなあ。ちょっと作り物っぽいものね。

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とはいえ、みなさんがわくわくするお知らせもある。

相模は藤原定頼とも恋をしている。みなさん定頼をご存じあるまい? 定頼こそ、小式部内侍にやり込められたプレイボーイ、当時のことばで「すきもの」である。

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時系列的には、小式部内侍にやりこめられた(1013年頃)(和泉式部が夫と丹後に下る)その後、1025年過ぎに、定頼は相模と恋に落ちる。しかし定頼(30歳)が成長していたとは俺にはちょっと思えない。

話は飛んだけどね、諸賢はお気づきやも。相模が今回の歌(1051)を詠んだ頃とdecadeが合うまい。相模(998-1061)は、50歳を過ぎてから、繰り返す、

恨みわび/ほさぬ袖だに/あるものを/恋に朽ちなむ/名こそ惜しけれ

これは、ちょっと、いい話じゃないかなと思うて。だとすればだ、

(別訳)若いころに根も葉もない噂を立てて私をさんざん泣かせて下さった世間のみなさん。私の名は恋のために朽ちました、(おばあさんなりに)まだ朽ちるでしょうけれども、ねえ。着物の袖ですか? ええ、もちろん残っています。相変わらず涙で濡れていますけれど。

これを、歌合でやる。招かれた歌人は、みんな大喜び、拍手喝采だったと思うのであります(実際、これくらの重層性、虚構性を心しないと、平安歌謡は、ちょっと読めない)。

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おしまいに、蛇足ながら、これほどの相模、いうまでもなく、若いころの歌もいいから、ぜひ触れてみていただければと。相模の名誉のために、お頼み申す。

クリアアサヒ:伊藤拓郎君の歌について

今週のお題「私の『夏うた』」

伊藤拓郎君(@kurifusu)という歌人がいる。クリフスとは日本海側に見える崖のことだろうか。わからない。彼の歌う手際の軽やかで見事なことはわかる。例えば、これ。

実に、屈託がなくてよい。諳んじてすうと流れる。喉越しである。上2句の畳み掛けるカタカナと、下2句の漢字の響きが、なんともいい配合。加へて云はずもがな、近景と遠景の妙。私はこういうのが好きだ。他にもある。

この、少しの屈託と、セーシェルという意外さがいい。「君」はクリアアサヒを飲む「君」と同じだらうか。ここでも片仮名がうまい。

かういふのもある。これは漢字遣ひのよさ。

夏草といえばこの界隈ではまず芭蕉の夢の跡のこと。伊藤君がどこまで明確に意識していたかは知らぬけれども、寝返り/猫ときて芭蕉を弾き飛ばし、さりとて猫とてやはり運命論と戦にやられるのである。「も」とあるから我々も同じことなのだらう。

伊藤君は驟雨と云ふ淳之介ばりのむつかしいボキャブラリを即興で遣いこなす人でもあるらしい。

七夕のイラスト「笹の葉とパンダ」

七夕のイラスト「笹の葉とパンダ」 | かわいいフリー素材集 いらすとや

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近代だけを見ても彫刻と歌のハイブリッドには光雲(高村)、寿蔵(鹿児島)らが。あるいは棟方志功の流れを汲むナンシー関。評論では建築をバックボーンにもつ吉本隆明。淡いながらもそれらの稜線はある。造形の技術と意志は人がみだりに内面に沈降する虞を和らげてくれる。言語の技術はそれだけを掘り下げるにはあまりに人の側が弱い。それを救うのがものでありかたちであるのだが近代の文学史はそのことを忘れたふりをしている。

伊藤君はどうかそのままベランダのクリアアサヒを眩しげに眺めたままで。

たまには、果実酒も。白色の果実とは何だろうか。或ひは、小粒のプラム。

おじさんの好みを云ふならばここは「吾」ではなく「君」が助平でよかった。だって、

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伊藤拓郎君。豊橋出身、金沢の人。金沢美術工芸大学彫刻専攻4年。その名前はしかと刻み込まれた。

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そんなわけで、いつか都心/船橋に足を運ぶ期会があったら、ご飯でも。ベランダのクリアアサヒは出せぬまでも安居酒屋でもつ煮込みをごちそうしようぞ。ぜひ、声をかけてほしい。

あれはたしか七夕(旧暦)のころ

97年だったか。

2回めの大学2年のとき(93)から付き合っていた女性と別れることになった。

池袋のメトロポリタンの前で待ち合わせをして俺の手が冷たいとみるとマフラーをかけてくれ、それでも冷たいのを見てとると真顔で困った顔をしてくれる子だった。俺はそのころから役に立たない男だったから、小咄をしたり「ごんぎつね」の話をしたりするので精一杯だった。

周りは結婚すると思っていただろう。

そうならなかったのは俺に別の好きな人が出来たためである。「物書きになりたい」なんていってるのと付き合っていても幸せになれない。「本当はそうじゃないでしょう?」

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思い出したことがある。

当時はポケベルというのがあって、それでよく待ち合わせをした。ふたりとも学生だったが、大学院に通いながら働きはじめていた俺にはそこそこの稼ぎがあったので、俺の名義で契約をして渡した。

ポケットベルのイラスト

ポケットベルのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

あるとき些細なことで喧嘩をし、火種は拡大して収まるところを知らず、彼女は別れを覚悟したらしい。俺は仲直りを切り出そうと思ってポケベルにメッセージを送る。届いたつもりでいるからメトロポリタンに向かった。待てども来ない。公衆電話から彼女の和光市の自宅にかけると出て、いった。「電池を減らしたらもったいないから」「ちょうど、ぜんぶ小物を箱にきれいに入れ終わったところだったの」「きれいに出来たのよ。いまから持っていくから見て」

俺は頭を下げた。かように、すべての戦は俺の負け戦だった。

彼女、Mちゃんは、その後、メガバンク勤務の俺の知人の知人と結婚して、いまはジャカルタに暮らしていると聞いている。

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それでも、だめなものはだめで、俺は1週間ほど実家に帰った。

旧暦の、七夕のころだった。

言い尽くせないことを手紙にしたためた。夜中、2階の自室で書いていると気分がくさくさしてくる。それで居間に下りてテーブルに便箋を広げて書いていた。

そのまま疲れて寝入ってしまったらしい。

朝起きると、俺の肩にはブランケットがかけてあった。書きものがきれいに寄せてあって、お茶と、お茶請けが添えてあった。

起きた気配を感じたらしいお袋が、「いいのが採れたのよ」と、ハニーバンタムを持ってきた。ビニール袋で包んでレンチンして皿に乗せただけのものだが、その甘さがそのときの俺にはとてもありがたかった。申し遅れたが実家の庭には畑が続いていて、ハニーバンタムがひげを蓄える一角があった。そこから、もいできたらしかった。

とうもろこしのイラスト(野菜)

とうもろこしのイラスト(野菜) | かわいいフリー素材集 いらすとや

お袋はいったん台所に下がり、俺が食べ終わるころに皿を下げにきた。自分でやるから、と俺がいうと「いいのよ」。いやいやお袋どの――

「大人になったのね」そしてカーテンと戸を開けて、「いい娘だったものね。Mちゃん、私も好きだった」

*

4年後に、お袋が息を引き取る前の最後のことばが「いいのが採れたのよ」だった。モルヒネがずいぶん効いていた。

その解釈をめぐっては、家族や親類を含むいろんな人がいろんなことを話した。俺はそれらをだまって聞いていた。

俺のために話してくれた言葉だと思ったからではない。テーブルの上に広げていたはずの手紙のことは、お袋はいちども触れなかった。

だまっていたのは、朝、俺よりも早起きをして畑に出て、トウモロコシをもいできたときのお袋の気持ちというのは、ちょっと、俺には想像がつかなかったからである。

返歌のすすめ

明日7/2、中澤系の墓参りのため茅ヶ崎まで。そこで、評伝を書かせてほしいと妹さんとご家族にお願いをしてくるつもりです。

こちゃんがやたらと登場しているのはねこちゃんが私をゆり動かすからである。

その中澤系、おそらくもっとも人口に膾炙し、その名声を不動のものにしたのは次の2首であろう。

  • ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
  • 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
uta0001.txt―中澤系歌集

uta0001.txt―中澤系歌集

 

この、師にあたる岡井隆さんが寄せたエッセイがすばらしい。引用する。(「中澤系歌集 uta0001.txt」)

中澤さんは、先づ、大きな身体の男であった。それなのに声は小さく、少し吃音気味に早口で話した。総体的には、寡黙で、しゃべるのは下手で、歌の批評なども、同じことを考へ考へくりかへしたので、きいてゐてじれつたくなつた。しかし、あのころの若者たちは、揃つて、話すことが嫌ひのやうに思へた。

(中略)

一番困つたのは、個人的に「あなたは今、なにを読んでゐますか。今までどういふ経緯をへて短歌を作つて来ましたか云々」といつた話し合ひの成立しないことが多かつたことである。だから、中澤さん(だけでなく)についても、人の噂で聞いてゐただけである。出身校なども、今度「編集後記」を読んで初めて知つた。また、そこが、あのころの若者たちの、おもしろいところでもあつた。なんとなく謎ぶくみであつた。

実はこの歌集の刊行には経緯があって、中澤は2002年春、31歳のときに副腎白質ジストロフィーの診断を受ける。病が進むなか、「一介のサラリーマンとして生きるだけでは何も残らない。歌集を出すことで自分の生きた証を残したい」とかつて話していたことを母や妹が思い出し、中澤も所属していた未来短歌会のさいかち真を経て出版されるに至る。

再び引用する。

あれから、かれこれ三年経つて、母君のご意思もあり、さいかちさんの努力もあつて、この歌集が出る。わたしは、ちよつと、言ふに言はれぬ心境で、腕をこまねいて、ゲラをみたり、天井を仰いだりしてゐる。歌人は大てい長いマラソン競技に出るのだが、中澤さんの走りは、まだ始まつたばかりだつたのである。

中澤は2009年4月24日に亡くなる。享年38。岡井隆さんの「わたしは、ちよつと、言ふに言はれぬ心境で、腕をこまねいて、ゲラをみたり、天井を仰いだりしてゐる。」がさすがに歌人の言葉遣いであり、なかなか書けるフレーズではなく、私はにこにこして、腕組みをし、塚本邦雄寺山修司と並ぶ中澤のこの「師」(1928-)にお会して話を引き出し、録音テープと書き起こしを残したいと思うのなら、いましかないと腹を括った。

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さっそく妹の書家、中澤瓈光さんをひょろーしてDMを送った。DMには、評伝は僕でなくてもいい。ただ、中澤系の軌跡を残すお手伝いをさせていただけるのならと書いた。そうしたところ、望外にも7月2日つまり明日だ、お墓参りに同行させていただけることになった。

uta0001.txt―中澤系歌集

uta0001.txt―中澤系歌集

 

宮台真司のテレクラ話を除けば、本書のパッケージングは完璧。

 で、なんだっけ。あ、返歌のすすめ。

とか。

とか。

ツイッターアカウントをお持ちの現代歌人のみなさんは、感性が通じ合うかぎりにおいて、返歌をすると返してくれることがある。これがもう、楽しくてくせになってしまう(もちろん、だからといって、むやみにやっちゃだめだよ)。たとえば、僕の場合だったら、青木健一さん。まめにお付き合いいただいています。青木さんのバックグラウンドもまた、興味深い。

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なんというか、歌はそもそもひとりで紙や画面に向かってやるものでありながら、そればかりではなく、歌合から、連歌に連なる形式だったのだなあとしみじみとおもう次第で。つい、id:kikumonagon さんのような、若い人たちにも勧めたくなったのでござる。

*

中澤系が歌を返してくれたらいいんだけどね。明日、話し合ってきます。