illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

あれはたしか七夕(旧暦)のころ

97年だったか。

2回めの大学2年のとき(93)から付き合っていた女性と別れることになった。

池袋のメトロポリタンの前で待ち合わせをして俺の手が冷たいとみるとマフラーをかけてくれ、それでも冷たいのを見てとると真顔で困った顔をしてくれる子だった。俺はそのころから役に立たない男だったから、小咄をしたり「ごんぎつね」の話をしたりするので精一杯だった。

周りは結婚すると思っていただろう。

そうならなかったのは俺に別の好きな人が出来たためである。「物書きになりたい」なんていってるのと付き合っていても幸せになれない。「本当はそうじゃないでしょう?」

*

思い出したことがある。

当時はポケベルというのがあって、それでよく待ち合わせをした。ふたりとも学生だったが、大学院に通いながら働きはじめていた俺にはそこそこの稼ぎがあったので、俺の名義で契約をして渡した。

ポケットベルのイラスト

ポケットベルのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

あるとき些細なことで喧嘩をし、火種は拡大して収まるところを知らず、彼女は別れを覚悟したらしい。俺は仲直りを切り出そうと思ってポケベルにメッセージを送る。届いたつもりでいるからメトロポリタンに向かった。待てども来ない。公衆電話から彼女の和光市の自宅にかけると出て、いった。「電池を減らしたらもったいないから」「ちょうど、ぜんぶ小物を箱にきれいに入れ終わったところだったの」「きれいに出来たのよ。いまから持っていくから見て」

俺は頭を下げた。かように、すべての戦は俺の負け戦だった。

彼女、Mちゃんは、その後、メガバンク勤務の俺の知人の知人と結婚して、いまはジャカルタに暮らしていると聞いている。

*

それでも、だめなものはだめで、俺は1週間ほど実家に帰った。

旧暦の、七夕のころだった。

言い尽くせないことを手紙にしたためた。夜中、2階の自室で書いていると気分がくさくさしてくる。それで居間に下りてテーブルに便箋を広げて書いていた。

そのまま疲れて寝入ってしまったらしい。

朝起きると、俺の肩にはブランケットがかけてあった。書きものがきれいに寄せてあって、お茶と、お茶請けが添えてあった。

起きた気配を感じたらしいお袋が、「いいのが採れたのよ」と、ハニーバンタムを持ってきた。ビニール袋で包んでレンチンして皿に乗せただけのものだが、その甘さがそのときの俺にはとてもありがたかった。申し遅れたが実家の庭には畑が続いていて、ハニーバンタムがひげを蓄える一角があった。そこから、もいできたらしかった。

とうもろこしのイラスト(野菜)

とうもろこしのイラスト(野菜) | かわいいフリー素材集 いらすとや

お袋はいったん台所に下がり、俺が食べ終わるころに皿を下げにきた。自分でやるから、と俺がいうと「いいのよ」。いやいやお袋どの――

「大人になったのね」そしてカーテンと戸を開けて、「いい娘だったものね。Mちゃん、私も好きだった」

*

4年後に、お袋が息を引き取る前の最後のことばが「いいのが採れたのよ」だった。モルヒネがずいぶん効いていた。

その解釈をめぐっては、家族や親類を含むいろんな人がいろんなことを話した。俺はそれらをだまって聞いていた。

俺のために話してくれた言葉だと思ったからではない。テーブルの上に広げていたはずの手紙のことは、お袋はいちども触れなかった。

だまっていたのは、朝、俺よりも早起きをして畑に出て、トウモロコシをもいできたときのお袋の気持ちというのは、ちょっと、俺には想像がつかなかったからである。

返歌のすすめ

明日7/2、中澤系の墓参りのため茅ヶ崎まで。そこで、評伝を書かせてほしいと妹さんとご家族にお願いをしてくるつもりです。

こちゃんがやたらと登場しているのはねこちゃんが私をゆり動かすからである。

その中澤系、おそらくもっとも人口に膾炙し、その名声を不動のものにしたのは次の2首であろう。

  • ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
  • 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
uta0001.txt―中澤系歌集

uta0001.txt―中澤系歌集

 

この、師にあたる岡井隆さんが寄せたエッセイがすばらしい。引用する。(「中澤系歌集 uta0001.txt」)

中澤さんは、先づ、大きな身体の男であった。それなのに声は小さく、少し吃音気味に早口で話した。総体的には、寡黙で、しゃべるのは下手で、歌の批評なども、同じことを考へ考へくりかへしたので、きいてゐてじれつたくなつた。しかし、あのころの若者たちは、揃つて、話すことが嫌ひのやうに思へた。

(中略)

一番困つたのは、個人的に「あなたは今、なにを読んでゐますか。今までどういふ経緯をへて短歌を作つて来ましたか云々」といつた話し合ひの成立しないことが多かつたことである。だから、中澤さん(だけでなく)についても、人の噂で聞いてゐただけである。出身校なども、今度「編集後記」を読んで初めて知つた。また、そこが、あのころの若者たちの、おもしろいところでもあつた。なんとなく謎ぶくみであつた。

実はこの歌集の刊行には経緯があって、中澤は2002年春、31歳のときに副腎白質ジストロフィーの診断を受ける。病が進むなか、「一介のサラリーマンとして生きるだけでは何も残らない。歌集を出すことで自分の生きた証を残したい」とかつて話していたことを母や妹が思い出し、中澤も所属していた未来短歌会のさいかち真を経て出版されるに至る。

再び引用する。

あれから、かれこれ三年経つて、母君のご意思もあり、さいかちさんの努力もあつて、この歌集が出る。わたしは、ちよつと、言ふに言はれぬ心境で、腕をこまねいて、ゲラをみたり、天井を仰いだりしてゐる。歌人は大てい長いマラソン競技に出るのだが、中澤さんの走りは、まだ始まつたばかりだつたのである。

中澤は2009年4月24日に亡くなる。享年38。岡井隆さんの「わたしは、ちよつと、言ふに言はれぬ心境で、腕をこまねいて、ゲラをみたり、天井を仰いだりしてゐる。」がさすがに歌人の言葉遣いであり、なかなか書けるフレーズではなく、私はにこにこして、腕組みをし、塚本邦雄寺山修司と並ぶ中澤のこの「師」(1928-)にお会して話を引き出し、録音テープと書き起こしを残したいと思うのなら、いましかないと腹を括った。

*

さっそく妹の書家、中澤瓈光さんをひょろーしてDMを送った。DMには、評伝は僕でなくてもいい。ただ、中澤系の軌跡を残すお手伝いをさせていただけるのならと書いた。そうしたところ、望外にも7月2日つまり明日だ、お墓参りに同行させていただけることになった。

uta0001.txt―中澤系歌集

uta0001.txt―中澤系歌集

 

宮台真司のテレクラ話を除けば、本書のパッケージングは完璧。

 で、なんだっけ。あ、返歌のすすめ。

とか。

とか。

ツイッターアカウントをお持ちの現代歌人のみなさんは、感性が通じ合うかぎりにおいて、返歌をすると返してくれることがある。これがもう、楽しくてくせになってしまう(もちろん、だからといって、むやみにやっちゃだめだよ)。たとえば、僕の場合だったら、青木健一さん。まめにお付き合いいただいています。青木さんのバックグラウンドもまた、興味深い。

twitter.com

なんというか、歌はそもそもひとりで紙や画面に向かってやるものでありながら、そればかりではなく、歌合から、連歌に連なる形式だったのだなあとしみじみとおもう次第で。つい、id:kikumonagon さんのような、若い人たちにも勧めたくなったのでござる。

*

中澤系が歌を返してくれたらいいんだけどね。明日、話し合ってきます。

 

世界のごんぎつね的内的構造について

また例によって旬を過ぎた話をする。

togetter.com

私はこういうのは好みではない(三島由紀夫)。そこで少し考察をする。正確にいえばかねてより考えていて誰にもしゃべらないまま腹を切ろうと思っていたことを披露する。よって終わったらやっぱり腹を切るのである。

大きく2点。引用はすべて新美南吉/黒井健「ごんぎつね」から。 

ごんぎつね (日本の童話名作選)

ごんぎつね (日本の童話名作選)

 

ごんぎつねの時代背景

  • これは、私がまだ小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。

注を付けよう。

  • これは、私[新美南吉:1913-1943]がまだ小さいとき[1918-20ごろ?]に、村[南吉記念館のある愛知県半田市岩滑(やなべ)西町:旧知多郡岩滑村]の茂平というおじいさん[南吉と2世代60歳差として茂平:1853?-1923?]からきいたお話です。

原文に戻る。

  • むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。

注を付けよう。

  • むかし[茂吉が幼心(1861?)に聞かされた、その少し前の事件として、1851ごろ?]は、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです[中山元若に連なる:中山勝時 - Wikipediaを「南吉」で検索されたい][また、中山家は現代まで続いている]。

私の南吉覚書 (小栗大造): 2005|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

mori-chan.cocolog-nifty.com

すばらしい。地誌は特定が済んでいることがわかる。

  • 以上の大まかな見取り図に立って、兵十は1816-81?くらいか(母親に先立たれた独身者。そう長生きはすまい。「事件」のあった1851年当時35歳くらい?)。
  • きつねの寿命を平均4年とすると、それより先に撃たれたわけだし、ひとりぼっちの兵十にシンパシーを寄せるのは青年期特有の傾向とみて、ごん(1848?-1851)。かわいそうに。

当時の村人の倫理観を普通に想像するに、きつねを撃ったところで自殺はすまい。一般的なきつねなら、喰った、もありえる。だが、兵十はそんなことはしなかったはずだ。手厚く供養し、晩年は半ば出家したような状態で過ごしたと俺は見る。

以下はイメージです。

ameblo.jp

年譜

  • 1816:兵十、生まれる
  • 1848:ごん、生まれる
  • 1851:兵十のおっかあ(1798?-)、病気になり、亡くなる(享年53)。「事件」が起きる
  • 1852:喪が明けた兵十、稲荷塚を建立
  • 1853:茂平、生まれる
  • 1861:茂平、「事件」の話を聞く
  • 1881:兵十、亡くなる(享年65)
  • 1913:南吉、生まれる
  • 1918:茂平、ごんの物語を南吉に聞かせる(実際には、中山家当主元若の妻しゑであろうといわれる)
  • 1923:茂平、亡くなる(享年70)
  • 1930:南吉、「ごんぎつね」原作を執筆(当時17歳!)
  • 1932:『赤い鳥』に掲載
  • 1943:南吉、亡くなる(享年30)。9月、童話集『花のき村と盗人たち』に収録、刊行
  • 1947:黒井健、生まれる
  • 1956:初めて学校教科書に採択される
  • 1973:俺
  • 1979:俺、読む。泣く
  • 1980:よよん君、生まれる(11月5日)
  • 1986:黒井健版「ごんぎつね」刊行
  • 2002:よよん君、亡くなる(享年22)
  • 2003:俺、滋賀に通う
  • 2017:俺、書く

camp-fire.jp

世界のごんぎつね的内的構造

絵本に寄せられた黒井健の挿絵は、1枚を除いてすべて見開き片面だ。1枚だけ、両面になっている。撃たれたシーンではない。

ごんが、いそいそと、栗やまつたけを拾うシーン。

  • つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。

f:id:cj3029412:20170624110038j:plain

ここが、僕は(も)作中でいちばん好きでね。世界がずっと、このままであればいいのにと思う。黒井健も、おそらくそのことを早いうちからわかっていたんだ。

*

もうちょっと書いたんだけど、これ以上のことは野暮になるから、消した(笑)。

#この記事は「国語の自由研究なう」に使っていいよ。

みたび川崎貴子のエッセイについて

もうちょっと言及している気もするのだが本格的にはこれでおそらく三度目。

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

川崎貴子のエッセイには熟語が多い

不満から入るような見出しだが、そのこと(だけ)がいいたいのではない。釣り糸を垂れたまでである。何より、次の最新のおっぱいエッセイはすばらしい。にもかかわらず、現時点でブックマークが1件しかないのは、ひとえに私の人徳のなさゆえである。んなことはわかっている。

wotopi.jp

さておき、で、これだ。

絶対に必要な場面でちゃんと結果を出し、「社会に必要とされる仕事」を仲間と実現

川崎貴子(敬称略、以下同じ)がその必要上(何の必要上かは後で述べる)わが内に飼っているおっさんが、「絶対必要場面結果社会必要仕事仲間実現喝っ!」と、にこにこと凄んでいる。

しがない物書きとしての私は、「ねえさん、あかんで」と呟かざるを得ない。「やまとことば、形容詞をお遣いなされ」といらぬお節介をつい口にしたくなる。

*

…やめた。

ひとつには、私が何をいおうと、無慈悲に有能な執事殿(id:aatoku)が、

執事の手にはお見舞いの品と、なぜかたくさんの事業計画書の束が携えられていた。

と、「貴子おねえさんをやすませるにゃよー」と、その文才を惜しむ私がねこの姿を借りて申し上げているにもかかわらず、ますます無慈悲に有能なご様子だからである。

*

理由のふたつめ以降は、以下に述べる。

近代日本の闘病記には珍しい形

闘病記というのは、だいたい相場が決まっている。「めそめそ/いらいらしている」「死に至る病の記録である」。そして何より私が気に食わないのは「病と戦う」ことだ。病と戦ったら消耗してしまうではないか。そんなのはいやだ。

極力、身をかわして、ぐうたらしつつ、一方で生に爪を立てる、その立ち上がりに力を込める、ために養生する、のが前向きな姿勢のはずなのに。それなのに、みんな病気になったら下り坂を美しく急いでしまう。

例えば、傑作であることは間違いのない次の2作。

死の淵より (講談社文芸文庫)

死の淵より (講談社文芸文庫)

 
おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記 (新潮文庫)

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記 (新潮文庫)

 

おふたりとも、尊敬してやまない。高見順なんていまの人は読まないだろう。江國滋もしかり。高見はその資質からもともと「めそめそ型」だからまあ安心して読める。江國はちがう。落語とジャズとトランプを愛した洒脱な俳人にして、しかし、救いがだんだんに目減りしていく。その姿が読み手の目に焼き付いていくのは、つらい。

*

川崎貴子のおっぱい闘病記は、どちらともちがう。

wotopi.jp

シリーズを、ぜひ読んでほしい。この人は、はなから、生きることに、うずうずしている。一般的にイメージする病人の姿ではない。そしてうずうずしている人に、やまとことば、形容詞はまどろっこしいのである。

「背中の向こう」を見ている

哭きの竜という有名な麻雀マンガがあって、その主人公の決め台詞が「あンた、背中が煤けてるぜ」。

「あんた、背中が煤けてるぜ」の画像検索結果

哭きの竜 セリフ集 - NAVER まとめ

竜は卓を囲んだ相手の背中に、欲と、飢(かつ)えと、勝負の綾を見透かす。

川崎貴子は、お嬢ちゃんの未来と、亡くなった先の旦那さんの後ろ姿を、思わず(あの件りは、おそらく、思わず、ふと出た発想なのだろう)二重映しにする。

もういちどリンクする。

女社長・川崎貴子、長女に約束する「キミが大人になるまで絶対に生きるから」|ウートピ

この、小見出し「女社長、亡き夫を想う」に相前後する、8段落ほどをできれば読んでほしい。そしてそこから締めへと向かう筆致の瑞々しさに唸ってほしい。

これは、生半可の書き手にできることじゃない。

お気づきか。

野暮を承知で私が問うてみたのは、だんだんと、川崎貴子の内なる「おっさん」のボキャブラリーが減っていくことである。数えるんじゃない。感じるんだ(笑)。筒井康隆なら、計算してやるだろう。川崎貴子が計算して書いたとは、いささかも思わない。

「背中」はもうひとつある

私が初めて川崎貴子の書くものを読み、何かに撃ち抜かれたように感じたのは、「無条件の愛と支配」と題する、次のエッセイだった。

ninoya.co.jp

私が置かれた状況や親の事情はもちろん異なる。

それでも「愛と支配」の構造には私自身やられている自覚はあった。加えて、川崎さん(ここは「さん」と親しみを込めて呼ぶところかな)がこのエッセイを発表したときというのは、私が2001年に離婚した経緯をある程度のゆとりをもって振り返ることができはじめたころだった。

ちなみにいえば、2014年2月の、まだいまとはいささか文体の趣のことなる、川崎さんがまるで自分にいいきかせながら、ゆっくりと地固めを行っているような、このエッセイは私の好みだ。おっさんが、顔を出してこない(笑)。10歳の少女のころの感じ方に、寄り添おうとしている姿が、この人の原風景のひとつは確かにここにあるのだと私に思わせてくれた。

そのように、原風景を、しかもプライベートと新興宗教というきわめてデリケートなテーマを、露悪にならず、繰り返しいうがゆっくりと落ち着いて自分のために、静かに語る。私はこの人の書くものはきっと信じられるとはっきりと思い、以来、ninoyaさんで配信される記事を読み進めてきた。

そして、ふたたび同じ上の記事に話を戻せば、

私など、人様の会社で「コーチング」や「コミュニケーション」を講義させていただき、自発的に考える社員の育成を吹聴しているというのに、娘の暴言に真っ向から対決。

「こらー!今なんて言った!言い直しなさい!」

その時、「これを今ちゃんと教えないとこの子は大変なことになる。」という親の愛情と、「親の意見には従うものだ。」という支配欲が、私の中で微妙に入り混じるのを感じます。

ここまで踏み込んで書く勇気。

*

川崎貴子がわがお嬢さんのことを思うとき、おそらくお母様の背中をも見ている。そして私は思うのだ。「人様会社講義自発的社員育成吹聴暴言対決愛情支配欲微妙喝っ!」と、熟語はやっぱり多い。しかし、これは川崎貴子の中に棲まうおっさんの「いい仕事」「グッドジョブ」であると。

愛情と支配欲という組んず解れつのあいだがらを、客体化するには、適切なおっさんが必要なのだ。そんなことを、何のために? 決まってる。大切なお嬢さんを、愛情と支配のパラドクスから守るブレーキをかけつつ、その未来へと、エールを送るためにである。

しかしいつの日にか

しかし諸君、私は川崎貴子勝手連の主宰として、彼女の「おっさん」に退いてもらい、その暁には、たおやかな女手のエッセイを書いてもらう夢を諦めたわけでは、決してない。

静謐なものがいい。動きのある、柔らかなものがいい。お花、お皿、人形、猫。風、小川。着物。珈琲。洋菓子。和菓子。

そうだ、手近なところで、焼き物など、どうだろう。

p-dress.jp

ろくろを、回しかけている。

きっと、すっかり癒えて、ふたりのお嬢さんが自立し、暮らしに落ち着きを取り戻したころ、川崎さんならやってくれるだろう。なぜ願うのか。才能があるのがわか(り切)っているからである。

その日が来るのを、私は待っている。

赤飯問題

まず、私は、猫野きなこさん(id:kinako222)がこのようなデリケートな実体験を記事にされた勇気に敬意を表するものである。敬意を惜しまない。

funin.hatenadiary.com

少し、ざっくりと見取り図を描きたい。というのは、そのことは、きなこさんが、

嫌な思い出にしかなりませんでした( ;∀;)

猫野きなこ🐱はてなブログ on Twitter: "@nekohanahime 嫌な思い出にしかなりませんでした( ;∀;)"

とおっしゃった、その辛い気分の緩和に多少なりともお役に立てるのではと思ったからである。以下は例によって論証を意図していないおれおれ理論。ではあるが、それなりの、すれっからしの人文系の院生程度のバックグラウンドはある、その上での暴論混じりであるとお考えいただきたい。

*

なぜ赤飯を炊くのか

ハレとケ - Wikipedia

赤飯 - Wikipedia

おそらく2面性(穢れと祝い)がある。

  • 血は穢れである
  • 祝いごとである

加えて、畏れと結もやい的なものがある。

  • 赤は禍々しい/神々しい色である(血/赤飯)
  • 神に奉り、その払下げを受けた赤飯を食べる(祓い)。同時に、共同体に振る舞うことは、その女性が生殖可能年齢に達したことを知らせる。かつ、生理中は村の共同作業には参加できない(労働力の面で/穢れ観念の面で)

これまでを簡単にまとめれば、「ヤバい。きちゃった」「喜ばしいのかな」「大人の階段って感じ?」「ヤバいことは神様に報告したほうがよくない?」「村の男の子に知られたらやらしい目で見られちゃう」「でも好きな人とは結婚したい」「でもいまむりお腹痛いし」みたいな。

ちなみに、

  • ゴマは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすため、などといわれるが、怪しい
  • 塩は、お清め。これは、まあ正しそう

おにぎりのキャラクター「お赤飯」 | かわいいフリー素材集 いらすとや

近代日本の何が問題か

話は飛ぶのですが。

平均12歳で初潮を迎え、16歳で結婚可能年齢に達し、平均29歳で結婚し、平均31歳で第一子を生む。41歳で自然妊娠の上限を迎え、平均50歳で閉経する。

  • 平均19年間(30-12+1)の生理が生殖という意味では結果的に機会損失になっている。16歳以降に限っても平均15年間。
  • 16歳から現在の自然妊娠の上限といわれる41歳までで考えると(30-16+1)割ることの(41-16+1)=57.7%の生理が生殖に対する結果的機会損失になっている
  • この間、恥/タブー感が抑圧/内面化され、学校教育と社会/会社教育がその穢れをうまく祓うことができない。女性に対しても、男性に対しても
  • いわば公認「産めよ増やせよ」期間である12年間(30歳から41歳)に集中/圧縮して2人、できれば3人産めと国や社会は女性に要請してくる
  • 主語も目的語もでかいのを承知で書くが、この無理には、男性の排泄至上主義と生産性至上主義によって、貧しい国や社会が回っていることが、見事に親和する

かつて配偶者が子宮内膜症にかかり、母親を子宮頸がんでなくした私が2001年ごろに似た計算を行った。当時はもう少しましな状況だった覚えがある。

社会制度設計の話

以上から導かれるのは、16歳から30歳までの妊娠出産を支援する社会制度である。言い古された話だが、他にない。文科省厚労省キャリアに17歳の娘さんがいるとする。「妊娠おめでとう。父さんは産むことに大賛成だ」「子育てをしながら学校に通えるように父さんが一肌脱いでやろう」と胸を張って天下に公表し、みんなが拍手喝采を送り、もって率先垂範たることが成り立たないとすれば、何かが違っている。

富国強兵/殖産興業に乗ってはならない

しかしだからといって富国強兵/殖産興業に乗ってはならない。ここからは好みの話寄りになるが、だめである。女性も男性も、「何かのために」「産み育てるから」美しい/有用性があるのではない。生は授かり、享けるもの。老いも若きも赤子も、それ自体で生命は美しいのである。うっかりするとそこから滑り落ちてしまう思想や社会状況は、私の好みではない。

翻って初潮の話

僕は小学5年生、早生まれ9歳のときに、たまたま授業参観の日にクラスメートの女の子がその授業中に迎えた。授業は騒然とし、その子は後ろを押さえて、友だちに付き添われ、保健室に向かった。少しの中断のあと、授業は継続した。参観者にも、僕たち児童にも、ゆるい箝口令のようなものが敷かれた。

女子は、おそらく全員が、起きたことを理解していただろう。男子は、わかっていた子とそうでない子に分かれた。わかっていた子は、さらに、吹聴する者と、沈黙する者に分派した。わかっていない子は、何とか聞き出そうとする者と、無関心な者に分派した。

僕は「わかっていて」「沈黙し」つつ傍観する(正確にはあっけにとられて為す術もなかった)ラディカル少数セクトになった。少数というか1人分隊である。参観に来ていた母親は「ほかのこともそうだけれど、わからないことは口にしてはだめよ。わかっていても、責任のとれないことは、口にしてはだめよ」と帰りの車の中で僕に釘を刺した。その場の対応/指示としては、見事なものだったと思う。

後年その「つけ」が回る

ここ最近、いろんなことがあって、それらを前にして「てへへ。そうは問屋が卸してくれました、なんてことにならねえかなあ、ご隠居」と一人落語をやる機会が多い。

残念、そうは問屋が卸してくれなかった。

  • 配偶者が、子宮内膜症にかかった。為す術もなし
  • 母親が、子宮頸がんにかかった。為す術もなし
  • くーちゃんに、避妊手術を受けてもらった。為す術もなし

dk4130523.hatenablog.com

母親とは、病気が判明したときに、ではどうすればよかったのか(早期発見、定期健康診断など)を考えはしたものの、話し合う機会を最後まで持たなかった。判明したときというのは、そんなことを言える雰囲気ではない。それ以降は、もっとそんな雰囲気ではない。僕の、生涯の宿題の1つになっている。

「お母さん(お父さん)、なぜおめでとうなの」「それはね」

きなこさんの記事に話を戻して、初潮を迎えたとき、「お母さん(お父さん)、なぜおめでとうなの」「それはね…」あるいは「おめでたいことに決まっているじゃない。それはね…」と、からっと明るく説明できることは、大切だろうな、という気がする。

ただもちろん、現代の家族をめぐる社会状況で、男性家族に、赤飯によって知られる必要はないだろう。

話を1つ上の段落に戻して、僕がいいたいのは、「それはね…」の説明原理を、実に様々な側面で、持ちにくい時代に生きている気がする、ということだったりもする。

追伸

きなこさん、おなかの赤ちゃんは、順調ですか~

「姫たち(はなちゃん、くーちゃん、みーちゃん、ちゃーちゃん)は(たよりにならない下僕ちゃんにかわって)、いつもおいのりしていますにゃよー」

追々伸

ちなみに、精通(初めての射精)を迎えた際に、お赤飯(ほかのものでも)でお祝いをした男性陣はいますか? (いないだろうなあ…でも、どうして?)

H(1972-1992)君のこと

ちょうど、いまごろの季節だったと思う。神宮で六大学をやっていたから、5月中旬だったか。秋の六大学ではなかったと思う。遠い記憶。26年前。

教養課程はクラスがあって。50人だったかな。文3は男女比が3:2。その中に、H君という、背の高い、色白の、ひょろっとした、目の彫りの深い、ちょっと日本人離れした顔立ちのクラスメート。体育実技で一緒になった。

バスケをやっていたときだと思う。準備体操のときだったか。

「おれ、来週からもう来られないんだ」

それに、僕は何って返したんだろうね。「ひょえー」とか「うん」とか「どうしたの」とか。大学1年の初夏は、クラスの人間関係がだいぶ落ち着いてきて、友だちが、友だちらしくなってくるころ。そのときに、彼は僕を選んでくれた。ことばを選んで、彼の中で沈黙を重ねた後で、上澄みをふっと投げるように、ほかに、いいようがなかったのだろうと思う。

*

クラスの友だちが、募金活動を始め出した。骨髄バンクへの登録を呼びかけ始めた。

僕は何か違うと思って。活動を否定するのじゃなくて、H君のあのときのことばに、何と返したのか、募金箱やビラを見てもそれすらはっきりしない自分がいやになって、ただやっぱり、募金やバンク登録ではいまからじゃもう間に合わないと判っていて、だから、せめてもと思ったのだろうか。黙って、僕は授業に出なくなった。一種の自罰、なのかな。

心配してくれたクラスメートからは、何度か電話をもらったのだけれど、出るのも何か気が引けて、億劫で、他にもいろいろとあって、僕は結局、駒場キャンパスというところに規定を1年オーバーした3年いた。僕がそこに無為な3年間を刻んでいた間に、H君が白血病で亡くなったことを、ずっとずっとずっと後になって、風の便りで知った。報せを受けたとき、(変ないいかただけれど)何だか(これくらい後になってからでよかった…)ほっとしたことを覚えている。

*

よよん君の話を書き上げる最終の段階になって、いろんな昔のことを思い出した。不義理が多い。不義理には事欠かないタイプだから。当時のクラスメートとも、四半世紀以上も連絡をとっていない。大方誰しもそうだとは思うものの。しかし、僕はH君のお墓参りに行って彼と話がしたいと思って、そして、当時のクラスメートに、細い糸を辿るようにして、いま連絡を試みている。

Mastodon 2段階認証のサーバ側リセット

ねことどん(www.nekotodon.com)で得たノウハウです。自己責任で行ってください。

ねことどんでは、次の手順で、Mastodonの2段階認証を、サーバ側から、あるユーザーに対し未設定状態に戻せることを確認しています。

*

以下をpsql内でusersテーブルに対して行います。(キーには登録メールアドレスを使用しました。)

-以下をnullにUPDATEします。

  • remember_created_at
  • encrypted_otp_secret
  • encrypted_otp_secret_iv
  • encrypted_otp_secret_salt
  • consumed_timestep
  • otp_backup_codes

-以下をfalseにUPDATEします。

  • otp_required_for_login

*

-コマンド例

UPDATE users SET encrypted_otp_secret=null WHERE email='user@example.com';

*

v1.4.0.6で確認しました。mastodonサービスの再起動は不要でした。