illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

(私信)和泉式部「とどめおきて」のこと

id:kikumonagon さんの受験勉強の気休めにと、ちょっと、訳しておきます。ざっとウェブを見た限りでは、しみいるような訳がみつからなかったので。

とどめおきて/たれをあはれとおもふらむ/子はまさるらむ/子はまさりけり

和泉式部後拾遺集、哀歌

::: 石塚修 Ishizuka Osamu ::: 筑波大学 人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 教授

私の、高校時代の恩師です。まさか、ここで再会するとは思わなかった(笑)。石塚先生、ずっと同じことおっしゃってる。よほどこの歌がお好み。僕もだけど。

それで、歌の背景をひらたくいえば、小式部内侍が、男子を生んだ際に予後をわるくして亡くなってしまいます。享年20代半ば過ぎと伝えられる。そのときに、母の和泉式部が詠んだもの。

訳します。

子と母をこの世に残して、あの子はいったいどちらを切なく思っているかしら。子のほうよね。だってわたしがそうだから。

「らむ」は現在推量。目のとどかないところでいま起きていることを、どうかしら、と想像する。「けり」は俗に気づきの詠嘆といって、はっとする気持ちを場に嘆き放り投げる。僕の訳だと、筑波の人文社会には採点者を指名すればきっと受かる。それ以外は減点されます。

でもね、僕はこの訳だと思う。「だったのだなあ」なんて、杓子定規に訳したのでは伝わらないものも、古文解釈にはあります。

山本夏彦と向田邦子のこと

山本夏彦(1915-2002)はいろいろと面倒くさいオヤジなんだが1つ2ついい仕事を残している。二葉亭(四迷)のこと、半井桃水(なからい/とうすい)のこと、そして向田邦子のことである。二葉亭と桃水の話はきょうはしない。

山本夏彦 - Wikipedia

いや、枕に、桃水の話だけしようか。桃水(1861-1926)は、樋口一葉のお師匠であり新聞小説家で、いっとき一葉に恋われていた。「一葉と恋人関係にあったという噂が当時からあった」なんてウィキペディアにはつまらねえ書き方をしてあるが、熱をあげていたのは一葉である。引こうか。

日没後、戸さしかためて皆々火桶のもとに寄りつどひつつ物語りするほどに、門の戸ほとほととたたきて音なふ人あり、(略)誰様やと家のうちより問へば、半井にこそ候へ、夜に入て無礼なれどといふに、その人なりと聞くままに胸はただ大波のうつらん様に成て、思ひがけずただ夢とのみあきれ…

山本夏彦「完本 文語文」(文春文庫)P.76 むろん原典は一葉日記。

前にも書いたかもしれないが、おれの亡くしたお袋が一葉が好きでね。「どうしていまの世にはこういう恋の物語がないのかしら」なんておれに訊くわけ。「さあ」「はて」なんておれもある程度の答えはあるがはぐらかすと「あなた文学部だったわよね。何のために天下の一高に入ったのかしら」なんて、にこにこする。

もちろんお袋もおれもわかっていて、ことばから入る恋ってのはある定型、規範だから。万葉集、古今新古今、小倉百人、同じことを知って話せてそこを微妙にずらして私のおれのあなたへの恋はかようにすばらしいんですよ、あの歌よりもわが恋はこれだけ上なんですよってやる。本歌取りはそのためにある(ちょいうそ)。

共通の土台がないところに、ことばを交わす恋の成り立つはずがない。

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歌を詠む平安貴族のイラスト(女性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

だから、ベクトルが反対のとき、ばかね、あなたじゃ相手にならないわ(とはもちろん口にしないのがたしなみである)ってときも事情は同じ。その古今もっとも人口に膾炙した例は、おそらくあの小式部内侍、

大江山いく野の道の遠ければ/まだふみもみず天の橋立

であろう。

ウィキペディアにはこれまた実につまらなく書いてあるが、四条中納言が小式部内侍に何とかして話の糸口を作りたくて、ちょっかいを出したのである。からかったと、ちょっかいを出すのとではちがう。

小式部内侍 - Wikipedia

軽薄でイケメンの四条藤原定頼はおそらく「ちょろい」と踏んだのだろう。あるいは恋心を仮面で隠した。母親は当代美人の誉れ高い和泉式部。その不在を幸いとした軟派に肘鉄を食らわせた。ぐうの音も出まい。はっはっは。さすがに定頼には袖にされたことがわかるだけの教養はあったはずだ。

*

山本夏彦向田邦子の話だった。

上で引いた、山本の「完本 文語文」には、かような、平安から明治まで(あるいはぎりぎり昭和20年まで)地続きでいられた和歌、漢籍、サロンといったものが、なぜよりにもよって自分が生きるいまこの時代(1915-2002)に断絶しなければならなかったのかを、洒脱な恨み節でもって記してある。

完本・文語文 (文春文庫)

完本・文語文 (文春文庫)

 

山本の著作の全貌からすると本書に対するAmazonの評点は甘いとおれは思うが、しかし、朔太郎(萩原)、綺堂(岡本)、敦(中島)、そして冒頭に述べた四迷、桃水、向田邦子らのことが、実に親切にフェアに、近代文学史の稜線上に並べてある。その山本をして向田姉さんの直木賞(1980上)受賞時にいわしめて曰く、

向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である。

(引用はまあどこからでもできるが今回は向田邦子「父の詫び状」(文春文庫)の、沢木耕太郎による解説から。沢木もたまにはいい仕事をする)

山本は、もうずいぶん前から向田姉さんのことを知っていて、その才覚に目をつけており、満を持したといういで立ちで、この一文を書きつける。それが昭和55(1980)年のこと。向田姉さんはその5年前、昭和50(1975)年に乳がんにかかり、肝炎と、右腕不如意の後遺症に苦しめられながら、「父の詫び状」を『銀座百点』に連載し、「だいこんの花」「阿修羅のごとく」「かわうそ」などの傑作を物した。

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 

本格的な文筆家になる前は、当時どちらかといえば色物とされていたトップ屋(事件記者)や脚本家を経て、じつに慌ただしくその軌跡を残している。それが、おそらく病気が1つの転機になって、静謐で鮮烈な「父の詫び状」につながったのだとおれは見る。以降、81年の台湾航空機事故まで、わずか6年。急ぎすぎたことが、返す返すも惜しまれる。

銀座百点◆銀座百店会

*

以上が前振りである。

おれは、止(や)まれぬ事情でいまを急ぎ生きている、ある女社長さんと淡い親交がある。山本は、(よそから見たら)もったいを付けて、それでいてうれしくて仕方がない表情で向田評を述べた。おれはそういうことはやらない。山本の時代はそれで間に合ったかもしれないが、いまは時代の速度がちがうのだ。

*

やるぞ。

川崎貴子の時代はもうすぐそこまで来ている。その文筆の蛹が蝶にかえる助走期間(つまりいま)をおれ(たち)は目の当たりにしている。病に打ち克つだろう。いささかの休息期間は彼女の文章をいっそう磨き上げるに違いない。向田姉さんのように、まったく予想外の矢を放つことだってありえる。そして飛行機はそうやすやすと落ちるものではないから、彼女は長生きをし、10年もすればいまとはまたテーマも味わいも違ったエッセイ集を出してくれるはずだ。

そのとき、彼女のギザギザのおっぱいに、おれ(たち)はあらためてひれ伏すことになるだろう。

wotopi.jp

dk4130523.hatenablog.com

補1:なら山本の何を読めばいいかの話はそのうちする。

補2:いちおう、父と乳をかけてはみたんだが。

補3:念のために断っておくが、このエントリーは川崎貴子のために書かれている。

作ってみた 豚バラ軟骨と白菜ざくざくカレー

作ってみた。カレーのレシピを晒すなんてどうかしてると思わないでもない。といいつつ俺は料理は素人なので平ちゃらである。俺は腕をあげた。うまい(味が)。かなりうまい(白菜が)。そう思ったらそう書くのである。

材料

  • 豚バラ軟骨:適量気持ち多め
  • じゃがいも:ぼちぼち
  • さつまいも:ぼちぼち
  • にんじん:大1本
  • 玉ねぎ:2個
  • 白菜:大振りに切ったもの数枚
  • カレールー:辛口1パック

作り方

  1. 豚バラ肉軟骨を鍋で2度茹でこぼす。そして流水でざっざっと洗う。脂をある程度思い切って落とすのがコツかもしれない。
  2. じゃがいも、さつまいも、にんじんは、皮をむいて一口大に切る。たまねぎは粗みじんにする。それぞれ水にさらす。
  3. 2を1と別鍋のひたひた水で茹でる。沸騰させたら弱火で20分。行平鍋からたまらない匂いが立ち上ってきた。
  4. 1.をシャトルシェフ(鍋)に入れる。葱の青い部分を数本入れる。ひたひた水で沸騰させ、火からおろして葱を取り出し、シャトルシェフ(本体)に入れ蓋をする。
  5. 4.に3.を入れる。3時間くらいがまんする。ねこちゃんをなでなでしましょう。僕はそのまま昼寝してしまいました。
  6. 5.にカレールーを入れる。やさしくかきまぜる。2時間くらいがまんする。僕はお部屋の掃除をしていました。
  7. 6.をかきまぜる。
  8. 白菜を大振りに切る(白いところを含む)。塩もみにする。
  9. 7.に8.を蓋をするように入れる。もちろんシャトルシェフの蓋もする。1時間くらいがまんする。僕はここでご飯を炊き、洗濯をしました。
  10. もりつける。付け合わせには、だいこん(やや青い部分)のぬか漬けを。

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白菜の歯ごたえがたまりません。あっさり風味。味はカレールーに任せる。コツは豚を別茹でにして、捨てるべき脂は思い切って捨てる。菜ものはいちおう水にさらす。この辺りだ。たぶん。

自慢したくなるくらいおいしかった。どうということのないカレーなんだけど、作るのうまくなったかもしれない(笑)。

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作りすぎた…。

ディック・ブルーナとシスターのこと(・x・)

おれ(1973-)がものごころを授かって最初に手にした本は、ディック・ブルーナの「うさこちゃんのたんじょうび」「ようちえん」である。

dk4130523.hatenablog.com 

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リンク先はクリック/読んでいただくまでもない。時間の無駄である。

ただ、うそじゃない、時宜を得た、何か気の利いたことがいいたいわけではないことを残しておきたかった。(おれは時宜には乗らない。むしろ好んで逆を行くタイプだ。)

げーてちゃんにあーはちゃん。かーれちゃんにさーるちゃん。きょうはおたんじょうかいのひです。

たしかこんな感じではじまるのだった。ちがっているかもしれない。

76年当時のうちは地方都市の郊外にしては珍しいリベラル/インテリぽい家で、スポック博士の育児書とか、朝日ジャーナルとか、聖書とか、諸橋大漢和とかがあった。たまたま近くにプロテスタントの幼稚園があり、おれはそこに入ることになって、そのバザーを通じて、福音館書店の刊行物が次第に面積容積をふやしていくことになる。いま気づいた。「うさこちゃんのたんじょうび」は1982年の発売だから、3歳のおれが手にしたのは「ゆきのひのうさこちゃん」か、その辺りだったかもしれない。

かように、思いでというのはいい加減なものである。

*

おれはようちえんが大嫌いだった。毎日お昼に白い牛乳を飲ませるからである。週に1回ある茶色い牛乳の日は好きだ。甘いからである。そこでおれは週に4回か5回、朝お出かけの時間になると家の門の前でひっくり返り手足をじたばたさせ抵抗する。泣く。わめく。

ポーズではない。ほんとうに、いやなのである。そこに受け持ちの大島先生が真っ赤なスカイラインに乗ってやってきて両親と結託しおれを助手席に引っ張り込む。大島先生は美人、ヤンキー、茶髪で情け容赦ないというその筋にはごほうびのような方で、おれが白い牛乳を飲み終えるまで別室に拉致監禁することもあった。

余談だがおれの卒園式のスピーチは「しろいぎゅうにゅうがのめるようになりました」である。シスターの園長先生がおれのおかっぱ頭をなでなでして、ひょうしょうじょうをくれた。そして「(おれ)くんは4がつからしないのがっこうにかようことになりました。それでも、みなさんはずっとともだちです」「はーい」と約束を交わした。それから、みんなで声を合わせて「マリアさまのこころ」を歌った。

その、地元ではうちよりも1世代か2世代早い、軍用地と雑木林と畑のほかに何もない荒地で、布教を行っていたシスターの園長先生が、おれがようちえんに来られるように、みんなと1日でも早くなかよしになれるようにと、ほとんど毎日のように電話や手紙をよこしてくれた。話の中で、そのころすでに本好きの素地を示していたおれのためにと、親に勧めてくれたのが、ナインチェ・プラウスと、いしいももこであった。

震災の前の年の秋、シスターが亡くなったとき、おれはすでに棄教していたがそのようなわけで馳せ参じて、お手伝いをした。むやみに涙がこぼれ、暗くなるまでその場に立ちすくんでいた。教えを棄てたのは間違いであったように思われた。いい大人が門の前でひっくり返って歯噛みをして地面を叩いた。何も起こらなかった。

*

震災のとき、いろんな著名人がいろんな動きをみせてくれた。おれはとりわけ3人、忘れないでおきたいと思う。江頭、シンディ・ローパー、そして、ナインチェ・プラウス。

www.asahi.com

ようちえん (子どもがはじめてであう絵本)

ようちえん (子どもがはじめてであう絵本)

 

いつの日か、ユトレヒトに花を手向けに行きたい。

(私信)鎌倉市図書館

id:kikumonagon さん。

twitter.com

こちら、ただものじゃない。(たぶん、id:kikumonagon さんなら、きっとわかってくれるんじゃないかと思うけど…)ふと目にとまって、お伝えしようと思いました。

garadanikki.hatenablog.com

同じ鎌倉で、こちらも、ただものではない。私は、(IHゆえ)長く自らに禁じていた土鍋に、とうとう手を出してしまいました。

以上、私信です。

あるエール

すばらしい。

nanaio.hatenablog.com

フロントラインで耳目を集め、意義のある社会的活動を行うのは高野君に任せよう。俺は控えめに船橋で干ししいたけを野田琺瑯にちぎって入れるのが性に合っている。だがしかしだね、前に湯島のおっぱいパブに連れていったとき話したように、id:tonbonline は本郷には進むこと。いいね? これは脅しです。

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遠隔医療のイラスト(女性医師) | かわいいフリー素材集 いらすとや

さて、本題。

もうだいぶ前に、あるはてなーと飯を食った。そのときに聞いた話は、彼のお父様が離島で開業医をなさっていること。はてなーの彼は、お医者様の息子として生まれ、医学部ではないが隣接する分野を専門に選び、いまも大学に通っている。朴訥と雄弁が入り混じって、ことばを選び選び話す、誠実なけもなーである。

取材者の癖が顔を出し、お父様のことを根掘り葉掘りうかがった。プライバシーに触れるので、これ以上のことは記さない。ただ、おっぱいのないキャバクラに連れ出して、不用意に「人生長いんだから受験勉強の頭が残っているうちにお医者様を目指すのは戦略としてわるくないとおもう」というような、いわずもがなを彼に伝えてしまったような靄に包まれた記憶がある。ない。淡い。おっぱい。すまない。

*

よよん君のことを取材していたとき、何人{か|も}の医師、研修医に話を聞いてまわった。よよん君の主治医だったX先生にも何度か取材に応じていただいた。私はその人がその人なりのプロフェッショナルとしての人生をなぜ、どのように選んだのかに、多大な関心をもつタイプだ。それは俺自身が読書人という中途半端なインテリゲンチャであることに由来する。平たくいえば俺は話をきいて記して駄洒落をいうくらいしか世の役に立たない。立っていない。腹立たしくて屁もでないたあこのことだ。

彼ら、現役のお医者様、そして研修医のみなさんが口々にいったのは、大きく次の3点だった。

  • 血液グループ先生は、ある種のセカンドオピニオンの理想を実現している。自分にはとうてい真似ができそうにない。
  • その物語の1シーンを、血液グループ先生自身が漫画やイラストで描けるというのは、それが救いになっているのかな。(わし註:血液グループ先生はいまのことばでいう腐女子である)

まあ、ここまではわかる。取材メモを見返すと(もやもやとしていたことが、輪郭を形作ったのは、つい数週間前のことである…)、彼らのほとんどが、次の点に触れている。

  • いつの日か、離島/無医村で医療に携わりたい。(または、「研修医になりたてのころは、自分もそう思っていた」(X先生))

これが、長いこと、僕自身のことばとして、うまくいえなかった。

以下は、X先生の述懐。

自分も、研修医になりたてのころは、離島や無医村、僻地で医療に携わりたいという夢をもっていました。なぜかって? いちばんいいのは―もちろん技術と経験がしっかりしていることが前提だけれど―ある患者さんの生育歴、病歴を、幼いころから、生まれたところから、ぜんぶ知っていることなんです。どこで、何をたべて、家族はだれがいて、何歳のときにどんなけがや病気をして。小さい集落なら、それができる。

 

小中学校の同級生に、ひとりふたりは、医学部に進む友だちがいるでしょう。僕もいまはこうして大学で臨床と研究を受け持っている。もしいま、どこかの病院からオファーがあれば、部長待遇ということになる。そこで、僕は思うんです。『なぜ、生まれた街に自然に戻っていけるコースが(あるようで意外と)ないのかな』って。

 

血液グループ先生が、よよん君に、2ちゃんねる以外のところで(わし註:よよん君が仲間内で開いていたサイトと掲示板があった。血液グループ先生は、そこに顔を出していろいろ書き込むので「荒らし認定」を受けてしまう)根掘り葉掘り好きな食べ物とか、家族構成とか、ペットや彼女の有無とか、それまでの暮らしのことを聞こうとする。

 

あれは、僕らの目で見ると―手段はよくなかったかもしれないけれど―きわめて王道の入り方です。僕も、よよん君には同じことを聞いて、いろいろと話し合った。

 

だからね、血液グループ先生が、僕のところに電話をかけてきて、いろいろ聞き出そうとする。もちろん、基本のところには医師としての極めて厳格な倫理とプライバシーがあるから、僕もむやみには答えることはできない。仲間内の符丁で、『そう』とも『そうでない』とも、そこはうまく。

 

それで、あるとき血液グループ先生が僕にこういった。

 

『私がよよん君と同じ街に生まれて、かかりつけの医師をしていれば、白血病の兆しを見逃すことは、決してしなかった…そうなりたかった』『どうして、だれもがそうありたいと思っていることが、できないのでしょうね』

 

これには、僕も思わず、はっとしてね。

 

彼女は―もう、よよん君のご家族にお会いになったということはご存じですね。掲示板では『わし』なんて名乗っているけれど、女性の先生です―われわれ同業者の目から見ても、すばらしい資質をお持ちの方だと思う。もちろん、主治医は僕だから、その地位を明け渡すことはするつもりもないし、しなかったけどね(笑)。

 *

ということで、これは不定期に行う週末の取材メモの開陳。

そして繰り返しになるけれど、これは冒頭に記した、あるはてなーへの、個人的なメッセージ、エール。よってからに、落ちはない。受験勉強にいそしむ彼の励みになればと思い筆を執った次第。

dk4130523.hatenablog.com

*

(2003年春のメモ)

血液グループ先生は、現在、東京の西のはずれの病院で、雇われ院長をしている。2ちゃんねるには、来ていない。